幻の戦闘機 「秋水」の工場が大村に? 郷土史同好会の会長が調査 「身近な悲劇忘れないで」 長崎

2024/02/13 [12:23] 公開

秋水の秘密工場があった可能性がある「丸山」(奥)について、作成した冊子で説明する上野さん=大村市今富町

 太平洋戦争末期に開発された幻の戦闘機「秋水(しゅうすい)」の工場が、大村市福重地区に存在した可能性がある-。戦争体験者の回顧録などに断片的に現れる存在を確かめようと、福重郷土史同好会長の上野盛夫さん(71)=同市野田町=は調査を進め、有力候補地を推定した。原動力は、地元の子どもたちに「戦争の悲劇は身近にあった」ことを伝えたいという思いだ。

 「邀撃(ようげき)戦闘機・秋水-その秘密基地を大村に作るの記-」。このタイトルの手記が、長崎原爆に関する体験の回顧録を集めた「原爆前後Ⅴ」(1971年、思い出集世話人発行)に掲載されている。
 秋水は大戦末期に日本が開発したロケット戦闘機。米B29爆撃機の迎撃を目指したが、7機が生産されたのみで実戦参加には至らなかったとされる。
 手記を寄稿したのは、戦時中、長崎造船所で働いていた田浦萬さん。手記によると、45年3月に「秋水班」が結成され、「全身全霊を打込んだ」。基地は大村のトンネル内と決定。「私たちの行った場所は(中略)福重という部落の山中で、谷合に二本トンネルを堀り、一本が薬液の貯蔵・混合・注入装置、一本が秋水格納用」だったという。
 また「近代史のなかの大村」(94年、松井保男著)も福重航空基地の存在を指摘。「秋水の基地に大村も予定されていた」と記してある。だが、秘密基地の場所を示す一次資料は見つかっていない。
 当時「完全極秘」で進められたとみられる秋水の製造。上野さんによると、地元でも証言を得られないという。それでも、いくつかの手掛かりをもとに福重地区の「丸山」と呼ばれる場所に工場があったと推測している。
 手掛かりの一つは田浦さんの手記。工場は従業員が寝泊まりする「三角兵舎」の近くにあったと記してあるが、丸山周辺を撮影した当時の航空写真に三角兵舎と思われる建物が写り込んでいる。また、丸山のそばを流れる野田川付近に当時、見張り番が立っていたという証言もある。さらに、丸山の近隣で育った上野さん自身が、かつて丸山に存在した直径5~10メートルほどのトンネルを記憶している。
 丸山の近くには福重飛行場(直線950メートル)の痕跡が残る。滑走路は1200メートル以上に延ばす計画があったという。これまで大村海軍航空隊の第2飛行場とだけ考えられてきた。だが、上野さんは「中型爆撃機であれば950メートルでも十分に飛べる。(延伸は)秋水を飛ばすためのものではなかったか」と考えている。
 複数の証拠を踏まえ、秋水の工場は福重・丸山にあったと考えた上野さん。考察を「秋水の秘密工場と飛行場」の題で冊子にまとめた。調査した背景には、79年前に古里で起きた悲劇の存在がある。
 終戦間際の45年7月、丸山や福重飛行場に程近い今富町付近で、9歳の児童が米軍機の機銃掃射の標的となって殺された。福重地区では空襲が繰り返され、分かっているだけでも赤ん坊を含む11人が死亡、41世帯が燃えたとされる。
 「米軍は航空戦力を最も恐れた。軍事施設がなければ空襲に遭わなかったかもしれない」。のどかな農村を襲った惨劇に思いをはせ、上野さんは声を落とした。古里の歴史を解き明かそうとするのは「身近な悲劇を忘れてもらっては困る」という思いからだ。
 現在、地元の小中学校で講話もしている上野さん。子どもたちにこう投げかけるという。「あなたの住んでいる場所は戦時中に燃えていたかもしれない。戦場は身近で、空襲は住宅地まであった」。次世代に戦争の恐ろしさを語り継ぐためにも、地元に眠る歴史を探り続けている。

福重飛行場の痕跡を示す直線道=大村市今富町