
当時、父母、きょうだい9人で暮らしていたが、長兄は出征していた。天気が良くて蒸し暑い日だった。友人たちと近くの川で小魚を捕って遊んでいると、光がパッと広がった後、ものすごい音がした。防空頭巾をかぶっていなかったので、とっさに水面に顔を付けた。
粉じんが舞い上がり、家の瓦などが吹き飛ばされて来て、気付くと周囲はがれきだらけになっていた。西山の自宅に戻ってから数時間後、自宅前の道は浦上地区から金比羅山を越えてきた負傷者たちが押し寄せ、長蛇の列ができていた。
目と口だけは辛うじて判別できたが、男性か女性かも分からない。水膨れがひどくて、まるで怪談に出てくる「お岩さん」のようだった。金比羅山中腹の穴弘法では身元が分からない子どもたちがさまよっていたらしく、背負って連れてきたという人もいた。そんな光景を見ても気が張っていたので「かわいそうに」としか思わなかった。
町内会長をしていた父は、非常時のためにヨードチンキなどの医薬品を自宅に常備していた。治療といってもヨードチンキを塗るぐらいしかできない。兄や姉はできる限りの手当てをしていた。食欲のある人には非常食の乾パンを提供していた。その日の夜はだご汁とヒジキご飯のような物を食べた。
おそらく翌日だったと思う。近所に下宿していた大学生がひどいやけどを負った状態で避難してきた。夜中、「苦しい」とうめく声が聞こえてきたが、亡くなってしまったそうだ。県立高等女学校の前の空き地では、死体をリヤカーで運んで火葬していた。風向きによっては死臭が自宅まで漂ってきていた。
長崎市役所に勤めていた父は被害状況の調査で1カ月ぐらい爆心地方面に行っていた。玉音放送は自宅で聞いた。進駐軍が来るというので、父と兄以外の家族は1カ月ぐらい佐賀県小城市に疎開した。
出征中の長兄はフィリピンに行くはずだったが、台湾南方の海峡で輸送船団が米軍の攻撃を受けたため、台湾に留まり命拾いをしたらしい。終戦後、飯ごうに砂糖をいっぱい詰めて帰ってきたのを覚えている。
あの日、一緒に遊んでいた友人たちのほとんどはがんで亡くなった。私自身も胃がんになり、今でも検査を受けている。
◎私の願い
私たちは原爆の犠牲者というより戦争の犠牲者だ。警戒警報が鳴ってまともに学校に行くことができなかった。もっと早い段階で降伏していたらこんなに犠牲者が出ずに済んだのではないか。戦争は人を殺すだけだ。勝ち負けはない。