赤波江政子さん(96)
被爆当時20歳 爆心地から1.8キロの三菱長崎造船所幸町工場で被爆

私の被爆ノート

骨になった母に涙

2021年6月3日 掲載
赤波江政子さん(96) 被爆当時20歳 爆心地から1.8キロの三菱長崎造船所幸町工場で被爆

 当時、三菱長崎造船所幸町工場の給与課で働いていた。自宅は長崎市松山町にあり、父が材木店を営んでいた。
 8月9日朝、空襲警報が解除され、母は父の髪をバリカンで刈っていた。私は勤務先の給料日が近づき仕事が忙しくなっていた。母は「はよう行かんね」と私を急がせた。いつもは電車通勤だが、なぜかその日は徒歩で向かった。
 職場事務所は木造2階建てで給与課は1階。到着後間もなく「ドカーン」という大きな音とともに、体がひっくり返され、奇跡的に机の下に飛ばされた。がれきが次々と机にかぶさり、「マリア様、助けてください」と祈った。
 助けを待っていると、庶務の男性係長の叫び声が聞こえた。がれきに挟まれた腕をのこぎりで切断されていたようだ。その後、大量出血で亡くなった。上司が私を助けに来たが手が届かず、差し出された足をつかんでやっと脱出できた。上司はけが人を救出し続けたが、後日亡くなった。
 事務所の外に出ると、皮膚が真っ赤になった女性がぼんやりと座っていた。声を掛けても返事はなかった。そのまま向かいの防空壕(ごう)に走り込んだ。15分ほどたち「ここは危ない」という話になり、親友らと別の場所を探すため外に出た。街を無我夢中で進み、諏訪神社近くに5人ほどしか入れない防空壕を見つけて一晩過ごした。
 明け方、松山町に向かった。家は跡形もなく、倉庫の材木がまだ燃えていた。土間と思われる場所で白骨になった母を発見し、わんわん泣いた。本当に惨めな姿だった。父は材木店の仕事で大波止にいて助かった。遺骨は後日、父と木箱に集めた。
 親戚のいる三ツ山町に避難した。その後、自宅の様子を見に松山町に行くと、銃を担いだ米兵が5、6台のジープに乗ってやってきた。焼け野原に隠れる場所はなく「殺される」と思ったが、通り過ぎていった。その先の石垣に黒焦げの死体がたくさん積み重なっていてぞっとした。
 被爆後1カ月ほどは、親友を前にしても名前を思い出せないなど記憶喪失になった。
 約3年後、結婚して北九州に移り、4人の子宝に恵まれた。だが、夫は家主に「原爆に遭った人とよく結婚したね」「4人もいたら後妻は来ないよ」などとばかにされた。子どもたちは皆心臓が弱く、長女は2017年にがんで他界した。もしかしたら原爆の影響かと思ってしまう。

◎私の願い

 戦争は駄目。原爆は本当に悲惨で、もう地獄は見たくない。みんな仲良くしなければならない。今の世の中は過ごしやすいが、児童虐待のニュースを見ると心が痛い。若者には良い家庭を築いてほしい。思いやりがあれば問題は起こらない。

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