平山和郎さん(88)
被爆当時13歳 伊良林国民学校高等科1年 爆心地から5.0キロの本河内町3丁目(当時)で被爆

私の被爆ノート

姉の唇に紫の斑点

2021年5月20日 掲載
平山和郎さん(88) 被爆当時13歳 伊良林国民学校高等科1年 爆心地から5.0キロの本河内町3丁目(当時)で被爆

 長崎市本河内町3丁目(当時)に自宅があり、姉3人と兄1人の5人きょうだいの末っ子だった。
 あの日、学校は夏休みだった。自宅の玄関先で、1人で遊んでいると、聞き慣れた米軍B29爆撃機の低いエンジン音の後、「フェーン」と高い音がした。直後、まばゆい閃光(せんこう)を浴び、とっさに家の中に飛び込んだ。無意識に土間に伏せた瞬間「ドーン」と大きな爆発音。爆風で建具は倒れ、柱時計は落ちた。
 家にいた母と一緒に、隣組が防空壕(ごう)にしていた家のすぐそばにあるトンネルに逃げ込んだ。私たちが一番早く着いた。長さは約20メートル、幅は3メートルくらい。女性や子どもなど隣組の住民たちが次々と避難して来る。皆、けがはしていなかった。敷いていた桟敷の上は、人でいっぱいだった。
 午後3時ごろ、トンネルから外に出て、近所のおばさんたちと「怖かったねー」と話した。空を見上げると、朱色の丸い太陽があった。直視でき、まるでお月さまのようで不思議な感覚だった。上空から半焼けの雑誌や紙切れがひらひらと舞い落ちてきて、何だか怖かった。
 誰かが「浦上方面は全壊だ」と話していた。信じられなかった。夕方になり、破れた作業着姿の人たちが列をなして歩いてきた。日見トンネル方面に向かっていた。すすけた顔で、目をギラギラさせながら歩く人の姿。やはり中心部は壊滅したのだと悟った。
 五つ上の姉は、学徒動員で大橋町の三菱長崎兵器製作所で被爆。何日かして、西山をはだしで越えて家に戻ってきた。やけどもなく、心配していた母も安堵(あんど)していたが、数日後から唇に紫色の斑点が出だし、髪も抜け始めた。
 母は見苦しい姿になった姉を心配していた。どこからか「ユズが効く」と聞き、姉にユズを煎じて飲ませた。そのおかげか、いつの間にか症状は治っていた。
 あの日から数日後、伊良林国民学校の校庭で死体を焼いているのを見た。建物を解体して出た木材を、碁盤の目のように組み、煙がくすぶっていた。あの光景は被爆から76年がたとうとする今も鮮明に脳裏に残り、忘れられない。
 戦後は食料難で、遠方までイモを買いに行ったり、闇米を買ったりして、苦労した。その後、夜間高校に進学し、21歳ごろに長崎税関に就職。33年ほど勤め、外国往来船の密輸入の取り締まりなどを担当した。

◎私の願い

 戦争をしないことは大前提。争いは、いったん始まると勝つか負けるかになる。必ず手が出て、歯止めがきかなくなってしまう。争いを生まないために、何とかぐっとこらえて、互いに話し合いで解決する努力をしてほしい。

 

 

ページ上部へ