早崎キヌヨさん
早崎キヌヨさん(87)
被爆当時12歳 伊良林国民学校6年 爆心地から2.3キロの桜馬場町で被爆

私の被爆ノート

父の行動 誇らしく

2020年7月2日 掲載
早崎キヌヨさん
早崎キヌヨさん(87) 被爆当時12歳 伊良林国民学校6年 爆心地から2.3キロの桜馬場町で被爆

 昭和初期、伯母が東南アジアのボルネオ島に単身で渡り、食堂を経営しながらゴム農園を開拓した。農園は父が引き継ぎ、規模を拡大。1932年12月、5人きょうだいの末っ子として現地で生まれた。
 広大なゴム農園が遊び場だった。早起きして毎朝産みたての鶏卵を拾うのが日課。山に少し入れば、ワラビなど山菜も採れた。40年ごろ、島も戦場になると察知した父が長崎に帰ることを決意。桜馬場町での新たな暮らしが始まった。ゴム農園での稼ぎがあり、生活は困らなかった。
 45年8月9日。朝から近くに住む級友の家に遊びに行っていた。午前11時2分。花火が目の前で爆発したような明るい光が飛び込んできた。ごう音が続く。「(畳の下に掘ってある)防空壕(ごう)に入りなさい」。何が何だか分からないまま、友人の母親の声に従った。
 周囲が静かになり、家の外に。爆風で窓ガラスは割れ、庭に散乱していたが、一帯は金比羅山に守られたのか、大きな被害は免れた。家族が心配で家路を急いだ。原爆投下時、母は春徳寺の裏山で地域の防空壕を掘っていて、無事に戻ってきた。自宅にいた3番目の兄は原爆が落とされた後も机に向かっていたらしく、それを知った近所の人からうわさが広がり、のちに勤勉ぶりが評判になったという。
 三菱長崎兵器製作所大橋工場で働いていた父は、柱のそばに逃げ込み、奇跡的に助かった。家族が不安な気持ちで待つ中、帰ってきたのは翌朝。後日、父に帰りが遅くなった理由を聞いた。工場から帰る途中の浦上川には、やけどに苦しみ、川の中に飛び込み、あえぐ人々。父自身もけがをしていたが、助けを求める人たちを見過ごすことができず、川岸から引っ張り上げていたというのだ。誰にでもできることではない。75年たった今でも、当時の父の行動を誇らしく思う。
 8月15日。母の実家のある戸石町の海岸沿いを歩いていた時、母に告げられた。「戦争に負けたけん、長崎(桜馬場)に帰るよ」。母は悲しそうな表情だった。
 終戦後は猛勉強し、小学校の教諭になった。常に心掛けたのは「仲良く、楽しく、けんかをしない」。それが平和の根源だから。子どもたちに原爆の詳しい話はしてこなかったが、思いは伝わっていると信じている。

<私の願い>

 戦争が終わってから、学校の運動場の端には火葬用に掘られた穴がいくつもあった。当時を思い出してしまうので、今は学校の近くに行くことはない。若い世代の人たちが自分たちで考え、戦争のない、核兵器を作らない世の中にしてほしい。

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