平野征博さん
平野征博さん(78)
被爆当時3歳 入市被爆

私の被爆ノート

異様な光景 記憶に

2020年6月18日 掲載
平野征博さん
平野征博さん(78) 被爆当時3歳 入市被爆

 海軍にいた父の任務に伴い、1945年当時、浦上地区出身の両親と、3歳の私、生後9カ月の妹の4人で熊本県天草に暮らしていた。B29が何十機と編隊を組んで上空を通過していった光景を覚えている。機体のものすごい爆音と、きらきらとした光。それが敵機だとは知らず、眺めていた。
 後で聞いた話によると、両親は古里に大きな爆弾が落ちたとラジオで知り、急いで長崎に向かおうとした。定期船はなく、漁師に頼んでようやく8月11日に小舟を出してもらった。
 家族で茂木に上陸。12日に立山町(当時)の母方の親戚宅に着き、父方の祖父母(父の両親)や父方、母方の親戚らを捜し回った。父方の祖母は疎開先にいて無事だったが、現在の長崎原爆資料館の敷地にあった自宅にいたと思われる祖父は骨も見つからなかった。母は亡くなっている人の口を開けて歯の形を見たが、分からなかったそうだ。
 母に手をつながれ、爆心地付近の惨状を目の当たりにした。異様な光景がよほど強烈だったのだろう。壊れて骨組みだけとなったガスタンクなどが今も記憶に残る。道端ではトタンの上に黒い物が積み重なっていた。当時それが何か分からず恐怖心も抱かなかったが、思い返すと黒焦げになった遺体だったと思う。
 戦後、父は魚雷に代わってやかんや鍋など生活用品を作るようになった三菱長崎兵器製作所大橋工場で働いた。資材を運ぶ馬車の荷台に乗せてもらい、工場近くの幼稚園に通った。原爆で崩れたままの建物も多い中、父の仕事が終わるまで、鉄くずを転がして遊んだ。
 母から戦時中の話を詳しく聞いたのは高校生の時だった。厳しい人生を歩んだことを知り、戦争を身近に感じるようになった。原爆がなければもっと親戚が生きていて、どれだけ自分の支えになってくれただろう。今年100歳を迎える母が大切に保管していた白黒の集合写真で笑ういとこたちに会ってみたかった。
 定年後に「長崎さるくガイド」となり、「平和案内人」としても修学旅行生らに戦争について語っている。原爆だけでなく、空襲や沖縄戦でも多くの人が苦しみ、亡くなったことも伝えるようにしている。戦後75年となり、戦争の悲惨さや原爆の恐ろしさをどう伝えたら分かってもらえるかと、悩みながら続けている。

<私の願い>

 戦争は大量殺人。非道徳的で、そこに正義はない。原爆の後遺症に苦しみ、差別を恐れて打ち明けられずにいた人もいる。長崎の被爆地を巡ったり、平和教育を受けたりする中で、それぞれの年代に応じて平和とは何かを考えてほしい。

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