内野辰吉さん(77)
被爆当時3歳 爆心地から1.8キロの長崎市御船蔵町で被爆

私の被爆ノート

原爆症「次は自分だ」

2020年1月30日 掲載
内野辰吉さん(77) 被爆当時3歳 爆心地から1.8キロの長崎市御船蔵町で被爆
 

 当時、自宅は長崎市御船蔵町にあり、両親と弟、妹の5人で暮らしていた。父は長崎市内の材木店で働き、母は専業主婦として家を守っていた。まだ幼かった私の被爆体験は、記憶と後に母から聞いた話が混同している。
 1945年8月9日。昼前で腹が減っており、台所でつまみ食いしていた時だった。家の外がピカッと光り、「ドーン」という音とともにすさまじい爆風が吹き荒れた。家の中はガラス戸が割れ、障子は破れ、足の踏み場もない状態になった。頭にガラス片が刺さり、軽いけがをした。
 近くの商店に買い物へ行っていた母は屋内にいて無事だった。外に出ると道には大勢の人が倒れており、母に向かって「助けてくれ」「水をくれ」と叫んでいたという。母は急ぎ家に帰り、私の頭に刺さったガラスを取って手当てをしてくれた。
 母に連れられ、弟や妹と一緒に、安全な場所へ行こうと近くの山の上へ逃げた。そこから見た市内はいつまでも燃えていて、まさに火の海だった。
 しばらく山で過ごした後、空腹を感じたので家に戻ると、中には大勢の人が勝手に上がり込み、家の食料を食べていた。母は自分たちの食料なのに「どうか、子どもたちがいるんです」と頼んで分けてもらった。
 父は市内のどこかにいたらしく、原爆投下から4、5日後に帰ってきたが、被爆して背中に大きなやけどを負っていた。
 戦争が終わった後も原爆の傷跡は残った。小学生の時、元気だった同級生が急に学校に来なくなることがあった。先生に聞くと「原爆症で亡くなった」ということだった。「次は自分だ」と不安を感じていた。
 暮らしはある程度裕福だったが、戦争が終わると貧しくなった。両親が「米が明日までの分しかない」と話していたのをよく覚えている。父は職場から給料を毎月前借りして、どうにか私たちを食べさせてくれた。
 そんな生活が続き、中学校の入学式が翌日に迫った日のことだった。詰め襟の制服を着ることに憧れていたが、家が貧しいため諦めて眠りについた。翌朝、目が覚めると、枕元に詰め襟の制服が置いてあった。父が束ねたまきを近所に売って回り、制服を買う金を工面してくれていた。思い出すと、今でも涙がこぼれてくる。

<私の願い>
 現在の日本は経済が発展し本当に豊かな国になった。これから先の未来、誰もが朝昼晩の食事を満足に食べられるように、子どもたちはしっかりと過去について学び、「戦争は怖い。戦争はしてはいけない」ということを次世代に伝えていってほしい。

ページ上部へ