大塚茂春さん(91)
被爆当時17歳 長崎市立第二商業学校夜間部3年 爆心地から3キロの長崎市酒屋町(当時)で被爆

私の被爆ノート

黒い雨 染まるコート

2020年1月16日 掲載
大塚茂春さん(91) 被爆当時17歳 長崎市立第二商業学校夜間部3年 爆心地から3キロの長崎市酒屋町(当時)で被爆
 
 当時は学徒動員により三菱兵器製作所大橋工場の給与課で働き、勤務後に夜学へ通っていた。1945年3月ごろに体調を崩し、教頭先生から仕事を休むように勧められた。4カ月間休職した後、長崎市役所臨時職員として水道課で働き始めた。
 同年8月9日。酒屋町(現在の栄町付近)の職場で水道料金を計算していた時、突然紫色の光線が差し込んだ。すぐに「ドーン」と大きな衝撃を感じ、机の下に潜り込んだ。近くに爆弾が落ちたのだろうと思った。
 江戸町付近で火災が発生したと知り、昼すぎに水道課の全員で、個人情報や市内の配管図などの重要書類を大八車に載せ、西山の水源地を目指して避難した。上長崎国民学校付近で黒い雨が降り、兄のおさがりの白いレインコートが真っ黒になった。この日は水源地の防空壕(ごう)で夜を明かした。夜中に外へ出ると、空が真っ赤に染まり、浦上方面が燃えているのが見えた。
 10日は市内の水道管の被害状況を調べて回った。11日、稲佐署近くの救護所に薬を運んだ。稲佐国民学校の体育館をのぞくと、死んだと思われる人たちが並べられていた。
 12日、油木町の長崎商業学校に設置された救護所に行った。赤ちゃんを抱いた女性がふらふらとやって来た。衣服はぼろぼろで肌が露出していた。赤ちゃんはタオルで包まれ、乳を口に含んでいたが、多分死んでいた。見るに堪えなかった。教室に行くと鉄製の窓枠はぐにゃぐにゃに曲がり、机もひっくり返って灰だらけだった。
 休職している間、三菱兵器大橋工場給与課は城山町1丁目の城山国民学校に移っていた。一緒に働いていた人たちは原爆でほとんど死んだ。休職を勧めてくれた教頭先生から命をもらったと感じた。13日以降は罹災(りさい)証明書を発行する臨時事務所で働いた。
 9月中旬ごろに「日本人が水道に毒を入れるかもしれない」というデマが流れたため、進駐軍が市内の浄水場を占領した。兵士が監視する中、出雲浄水場で働いた。兵士から銃を突きつけられながら、1カ月ほどカルキ抜きの作業をさせられた。
 12月に市の正規職員になった。秘書課や総務課などを経て、初代の原爆被爆対策部長に就いた。在任中は被爆地域の拡大に取り組み、国に陳情を続けた。

<私の願い>

 原爆や戦争はあってはいけない。国際的に無くしていく努力は必要で、国同士の力関係に核兵器を利用するのは間違っている。日本は唯一の被爆国として二度と犠牲者が出ないように先頭に立って訴えていかなければならない。

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