白井洋子さん(80)
被爆当時5歳 爆心地から2.3キロの長崎市大黒町で被爆

私の被爆ノート

衝撃 消えた記憶

2019年12月12日 掲載
白井洋子さん(80) 被爆当時5歳 爆心地から2.3キロの長崎市大黒町で被爆
 

 原爆の衝撃があまりに強かったのだろうか。被爆前の記憶は、ほぼ消えてしまった。仲が良かったという幼稚園の友達のことも、よく遊んだ近所の子たちのことも覚えていない。だが、原爆の数分前からの出来事は鮮明に記憶に残っている。
 カトリックの家に生まれ、両親と3人で長崎市大黒町の自宅に暮らしていた。1945年8月9日。幼稚園は休みで、一人で自宅にいた。父は警防団として自宅付近の中町教会に詰めていて、母も近くで配給作業の手伝いをしていたという。
 午前11時に差しかかったころ。何をしていたかは覚えていないが、自宅の玄関に座っていた。すると、外から飛行機の音が聞こえてきた。「危ない」。とっさに自宅前にあった小さな防空壕(ごう)に飛び込んだ。目の前を閃光(せんこう)が走り抜け、稲妻のようにぱっと光った。その衝撃に驚き、思わず泣きだした。
 すぐに母が防空壕に駆けつけてくれた。安全な場所を求め、火の手を避けながら遠回りして西坂町の親戚宅に向かった。高台の家から望む光景は想像を絶していた。目の前に立つ家々にまで炎が迫り、じりじりと熱さを感じた。付近の道路を見ると、大やけどを負った人たちが次々と目に入った。男女の区別がつかないほど顔が腫れ上がった人、手の皮膚が焼けただれて指の境目が分からなくなった人。すごく恐ろしかった。
 自宅は全焼した。長崎にいた多くの親戚が犠牲となり、身を寄せる場所もなかった。家族3人でいったん長与の親戚宅に住まわせてもらい、9月ごろから大村にある教会の司祭館の部屋を間借りすることに決まった。
 家族3人ともけがはなかったが、被爆直後から親戚を捜して爆心地付近を歩き回った父は大量の放射線を浴びていた。司祭館に来てすぐに具合が悪くなり、全身の皮膚が茶色に変色した。回復するまで40日ほどを寝たきりの状態で過ごし、母は薬を飲ませて看病した。その後も3人で大村に住み続けた。
 被爆前のことは少しだけ覚えている。原爆が落ちる何日か前、飛行機が町を爆撃する様子を近所の家から見ていた。遠くで爆弾が破裂し、その衝撃が「ガガガッ」と体に伝わってきた。楽しかったことは記憶から抜け落ちてしまっているが、そんな恐ろしい経験はまだ脳裏に焼きついている。

<私の願い>

 これまでは被爆体験を話す機会がなかったが、被爆者は段々と少なくなり、私も何かを伝える必要があると感じている。ローマ教皇フランシスコが言うように平和は大事だと本当に思う。世界平和の実現に向けて、毎日祈り続けたい。

 

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