塚本よし子さん(84)
被爆当時10歳 爆心地から4キロの長崎市稲田町で被爆

私の被爆ノート

地獄絵図 広がる

2019年12月26日 掲載
塚本よし子さん(84) 被爆当時10歳 爆心地から4キロの長崎市稲田町で被爆

 長崎市田上で生まれ育った。当時の田上は農村地帯で、近隣の学校は農繁期が休みだった。高校の英語教師だった厳格な父は、私を農繁期休暇のない仁田国民学校に入学させた。しかし戦況が悪化する中で越境通学が禁止になり、早坂国民学校に通い始めた。
 夏休み中だったあの日、仁田の友人に会うため稲田町へ遊びに行った。休暇が多い早坂は授業が遅れているのではないかと心配で、家と家の間の細い路地で、友人と「どこまで勉強が進んだか」と立ち話をしていた。
 突然、ピカーッと意識を失うほど強い光が路地を駆け抜けた。同時に、雷の稲妻とは全く違うドーンというごう音が響いた。何が起きたかは分からない。ただ「この世の終わりだ」と感じた。
 気が付けば無我夢中で坂を駆け上がっていた。「お母さんに早く会いたい。もし私一人になってしまったらどうしよう…」。そんなことを考えながら、ひたすら田上の実家を目指した。途中振り向きもしなかったのだろう、きのこ雲を見た覚えはない。
 幸い家族は全員無事だった。しばらくして、戦火を逃れた親戚が次々に田上へ避難してきた。中には爆心地に近い浦上駅前から逃げてきた人もいた。浦上は町がめらめらと燃えて浦上川に人がどんどん飛び込んだことや、やけどをした人が「水を、水を」と叫んでのたうち回り、そのうち死体が川にぷかぷか浮かんだことなどを聞いた。田上でも、飼っている農家の馬が苦しそうにしながら、ばたばた倒れていった。
 夕方、町が燃えていると聞き、親戚の子どもたちと一緒に見晴らしのいい高台へ向かった。見下ろすと、地獄絵図のような光景が広がっていた。長崎の町はもう元には戻らないと思った。
 戦後、風邪をひいて医者にかかった時に「放射能を浴びているし、せいぜい50歳までしか生きられないだろう」と言われた。私たちに罪はないのにと、心の底から米国を恨んだ。先祖にがんの患者はいないのに、8人きょうだいのうち私を含む4人が、がんを患った。
 大人になり入行した富士銀行(現みずほ銀)で俳句に出合い、10年前から川柳も始めた。〈民飢えて北朝鮮の国防費〉〈銃よりペン平和を願う無辜(むこ)の民〉。戦争について川柳を詠む時、いつも被爆の記憶がよぎる。

<私の願い>

 戦争は絶対にだめ。平和が第一だが、世界では自国第一主義が目立ち、核保有国もある。原爆の恐ろしさは体験した人でないと分からず、悲惨さを訴えられるのは広島と長崎だけ。全ての核兵器を製造中止に追い込まなければならない。

ページ上部へ