熊谷 幸
熊谷 幸(85)
熊谷幸さん(85)
爆心地から3・5キロの長崎市鍛冶屋町で被爆
=長崎市滑石6丁目=

私の被爆ノート

表現できない異臭

2015年11月19日 掲載
熊谷 幸
熊谷 幸(85) 熊谷幸さん(85)
爆心地から3・5キロの長崎市鍛冶屋町で被爆
=長崎市滑石6丁目=

当時、旧制長崎中3年の15歳。学徒動員により、戸町のトンネル工場で特攻艇のスクリューのねじを作る日々だった。

9日は夜勤の日。出勤まで時間があったので母と鍛冶屋町の自宅にいた。ラジオも何もない時代。何をすることもなく過ごしていると、どこからか飛行機の爆音が聞こえた。2階の窓から空をのぞいても機体は確認できず、1階の居間に下りた。その瞬間とてつもない明るさの光で家の中が真っ白になった。「近所に爆弾が落ちた」。とっさにその場に伏せた。爆風は感じなかったが、目を開けると天井はめくれ、建具が外れている。腰を抜かして走れない母親の手を引き、晧台寺の防空壕(ごう)に逃げた。数日後には船津町(現恵美須町)で働いていた父とも再会。死んだと思っていたのでほっとした。

家族で帰宅し学校の指示を待っていると、坂本町(当時)の山王神社近くに下宿していた同級生、玉井重昭君の遺体を捜しに行くという担任の高橋先生の方針を、誰かが伝えに来た。12日、学校の中庭に高橋先生とクラスメート十数人が集まり、坂本町に向かった。

馬の死骸がごろごろと転がり、何とも表現できないほどの異臭が漂う町。ぺしゃんこにつぶれた玉井君の下宿先の民家に着くと、みんなで木材を取り除き始めた。「いつ出てくるのだろう」。不安で手がなかなか進まず、恐る恐る作業を続けた。約20分後に玉井君の足が見つかった。大きく腫れ上がった太もも。直視はできなかったが、手で触れたらはじけてしまいそうだった。気分が悪くなる同級生もいた。

その場で荼毘(だび)に付す前に、高橋先生の唱える般若心経に合わせてみんなで合掌した。スポーツマンで体格が良かった玉井君。顔も腫れて面影がなくなっていた。「こんなになってかわいそうに」。何とも言えない気持ちを抱えて家路に就いた。

<私の願い>

1発の原爆で、何万人もの人が亡くなった。核兵器には絶対に反対。核廃絶は必ず進めてほしい。原爆のことについて世間の関心は薄れているようだ。当時を覚えている人々は、どんどん少なくなっている。今のうちに被爆の記憶が消えていかないように、引き継いでいってほしいと思う。

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