田中 克己
田中 克己(86)
田中克己さん(86)
爆心地から4・1キロの長崎市西立神町で被爆
=壱岐市郷ノ浦町有安触=

私の被爆ノート

駅裏に無数の白骨

2015年11月12日 掲載
田中 克己
田中 克己(86) 田中克己さん(86)
爆心地から4・1キロの長崎市西立神町で被爆
=壱岐市郷ノ浦町有安触=

壱岐の沼津国民学校高等科を卒業後、長崎市に移り、学生の立場で西立神町の三菱重工長崎造船所で働いていた。その日は工場の機械を防空壕(ごう)内に移す作業をしていた。

重たい配電盤を4人で担ぎ、工場から移動中だった。外に出たところで工場のコンクリート壁にもたれて座り込んで休憩。その時、閃光(せんこう)が走り、「ドドーン」とものすごい爆裂音と猛烈な風で頭上の窓ガラスが吹き飛び、木造建物は壊れた。重厚なコンクリート壁の建物は残り、私はその壁を背にしていたので無事だったが、高所作業の人が転落したりした。とっさに壕に走り込み、「大丈夫か」などと声を掛け合った。

外に出ると救助活動が始まっていた。目にガラスが刺さったりやけどしたりした人や死亡者もいた。街じゅう火が回り、動けなかったので2泊をその場で過ごした。

3日目に、寄宿舎のあった飽浦に帰ったら、そこはガラスが割れたくらいで被害は小さかった。寄宿生約300人のうち、半数くらいが帰って来ていた。

翌日、放射能があるとも知らず、友人を捜しに市街地へ。長崎港内は見える範囲だけで数十人の死体が浮いていた。稲佐橋付近は見渡す限り灰。人も埋もれていた。川にも無数の死体。長崎医科大付属病院の土手下にも無数の死者が放置されたまま、かたまっていた。

朝鮮の人が道端で「ムル、ムル」などと言っていた。後で分かったが「水をくれ」という意味だった。何とかしてやればよかったと悔やんだ。

長崎駅から汽車が通いだしたので終戦後2日目、唐津経由で壱岐に帰ることにした。長崎駅の裏には無数の白骨が転がっていた。

汽車が出発し、トンネルを抜け長崎を離れると空気がガラッと変わった。長崎の街全体に死臭が漂っていたことをあらためて実感した。

<私の願い>

戦時中、正直言って米国に復讐(ふくしゅう)して、友の敵を討ちたかった。若者に言っても分からないかもしれないが、戦争は無くならないだろう。人類の生存競争そのものだから。

しかし、そうとはいえ戦争は良くない。二度と起こらないように、ひたすら願うばかりだ。

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