江口 輝子・上
江口 輝子・上(83)
江口輝子さん(83)
入市被爆
=長崎市愛宕3丁目=

私の被爆ノート

生死分けた“寄り道”

2015年8月20日 掲載
江口 輝子・上
江口 輝子・上(83) 江口輝子さん(83)
入市被爆
=長崎市愛宕3丁目=

五島・奈留島出身。当時12歳で長崎女子商業学校1年。長崎市浜口町で叔母の家に下宿していた。

8月5日ごろ、近くの防空壕(ごう)に爆弾が落とされ、もしもの場合の逃げ場がなくなった。隣家の岩永さんは、小学生の娘を連れ三重村(現三重町)の実家に避難するという。

叔母は岩永さんに「2、3日だけでも」と頼み込み、私だけ連れて行ってもらった。

9日朝、三重村から浜口町の叔母の元へ帰るため、岩永さんと一緒に出発。「お盆に帰れないから」と急きょ、遠木場郷(現鳴見町)にある岩永家の墓掃除をして帰ることに。結果的にこの“寄り道”が生死を分けることになった。

墓地で、米軍機が数日前にまいたと思われるビラを拾った。朝露にぬれ色あせていた。「日本良い国、神の国。7月、8月、灰の国。長崎の皆さん田舎に疎開しましょう」。そんなふうに書いてあったと記憶している。

墓掃除を終え、近くの岩永さんの知人宅で休憩。ビラを手に「(田舎に人を集めて)今度は田舎を攻撃するつもりだろうか。早く長崎市に帰ろうね」。そんな会話をしていた時だった。

薄暗い部屋に強烈な光が差し込み、天井から大量のすすが落ちてきた。しばらくして外に出てみると、市中心部の方は雲だらけに見えた。

それから浜口町を目指した。途中の畑には、真っ黒に焦げて中身がぐちゃっと飛び出した大きなカボチャがあった。先に進むと、そのカボチャと同じように顔が膨張して破裂したような人、黒く焼けただれて前も後ろも分からない人も…。地獄だった。

その日は、道ノ尾駅辺りに着いたところで日が暮れた。

叔母が生きているならこの道を歩いてくるはず。そう考え、市中心部の方を見ながら、ずっと待っていた。偶然、叔母の家の一区画横の隣組の班長と会い「(叔母が)ミシンをリヤカーに乗せて歩く姿を(道ノ尾駅付近で)見た」と教えてくれた。

叔母は洋裁が得意だった。生きているかもしれない。少しだけ希望が湧いた。

班長が叔母を見かけたのは数日前のことだったのか、それとも見間違いだったのか。今も真実は分からない。

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