清水 輝子
清水 輝子(82)
清水輝子さん(82)
爆心地から2・6キロの長崎市片淵町3丁目(当時)で被爆
=長崎市愛宕3丁目=

私の被爆ノート

血臭う防空壕に暮らす

2015年8月13日 掲載
清水 輝子
清水 輝子(82) 清水輝子さん(82)
爆心地から2・6キロの長崎市片淵町3丁目(当時)で被爆
=長崎市愛宕3丁目=

父の仕事の関係で中国で生まれ育った。1944年、父が列車事故で亡くなったのをきっかけに父の古里長崎に帰郷。長崎市片淵町3丁目(当時)に母=当時(43)=、弟=同(8)=と3人で暮らしていた。兄も2人いたが、出征するなどしており、長らく会っていなかった。

あの日はうだるような暑さだった。瓊浦女学校(当時、桜馬場町)1年生だった私は、家で弟とかるたなどをして遊んでいた。すると「ピカッ」と閃光(せんこう)が走り、爆音が響いた。焼夷(しょうい)弾が落ちたと思ったが、母は私たち姉弟の手を取り、近くの防空壕(ごう)へ駆け込んだ。狭い穴の中にはすでに大勢の人々が、恐怖におびえた表情で身を寄せ合っていた。

しばらくすると、顔も髪の毛も焦げ、皮膚が焼けただれた人々が、浦上方面から金比羅山を越えて私たちのいる防空壕に逃げてきた。穴の中は何十人という人々で埋め尽くされ、生臭い血の臭いが充満。目を覆いたくなるような光景に、「日本は負けたのだ」と感じた。弟は何も分かっていない様子だった。

実家は倒壊し、防空壕で生活。辺りに充満する悪臭や横たわる死体。生きた心地はしなかった。半年以上、壕で過ごすこととなった。食べるものもなく、近くの農家を回って「サツマイモやカボチャを分けてください」と頭を下げる日々。こじきのようで哀れだった。

働かなければ生きていけないと、終戦の翌年から千馬町(当時)の長崎電話局の交換手として勤務。初めての給料の半分を母に渡すと、母は「テルちゃんからお金をもらって申し訳ない」と涙を流して喜んだ。32年間勤め上げた。

被爆当時、家族3人にけがはないと思っていたが、母はやけどを負っていたようで、終戦から6年後、原爆の後遺症でこの世を去った。

<私の願い>

復興を遂げた今の日本に、戦争の跡は見られない。だが世界を見渡せば、いまだに核兵器を持っている国があり、核実験が繰り返されている。全人類を滅ぼす核兵器。「必ず廃絶しなければならない」と声を大にして訴えたい。全世界の人々の平和が、いつまでも続くよう心から祈っている。

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