鈴田 一男
鈴田 一男(80)
鈴田一男さん(80)
爆心地から1・3キロの長崎市西町で被爆
=長崎市音無町=

私の被爆ノート

3番目の姉 戻らぬまま

2014年3月6日 掲載
鈴田 一男
鈴田 一男(80) 鈴田一男さん(80)
爆心地から1・3キロの長崎市西町で被爆
=長崎市音無町=

当時11歳で西浦上国民学校の6年生。あの日は朝から母と家の近くの田んぼで草取りをしていた。作業をしていると、「ブーン、ブーン」という大きな飛行機のエンジン音が聞こえた。

「敵機かな」。そう思って空を見上げたが、雲が多く飛行機を見つけることはできなかった。

敵機だといけないので家に戻ろうと、母と一緒にあぜに上がった。田んぼの水で足を洗っていたそのとき、目がくらむような強烈な光を感じた。

反射的に親指を耳の穴に突っ込み、残りの指と手のひらで目を覆い、しゃがみ込んだ。しばらくして手を外すと、あぜにいたはずが田んぼの真ん中にいた。何も感じないまま爆風で5メートルほど飛ばされていた。

けがもなく何が起きたのかよく分からないまま、母と近くの射撃場にあったトンネルのような壕(ごう)に避難した。しばらくすると、頭から流れた血で顔が真っ赤に染まった人たちがぞろぞろと中に入ってきた。

20歳ほどの若い女性は頭蓋骨がはがれ、中にある血管かなにかが脈を打つように動いているのが分かった。泣きながら「水をくれんね、水をくれんね」と繰り返していたが、黙って見ていることしかできなかった。

地獄のような光景で怖く、母の手を思わずぎゅっと握り締めた。

夕方になり家に戻ると、煙がくすぶっており、灰になってしまっていた。家には姉と弟、姉の子どもがいたが家が燃える前に避難しており無事だった。

ただ一番年が近かった三つ上の3番目の姉は、学徒動員されていた三菱長崎兵器製作所大橋工場から戻ってこなかった。

しばらくの間、同工場のほか、市内や時津、長与などの救護所を父と訪ねて捜したが、手掛かりはなかった。

姉はどこの煙になってしまったのか、今でも分からない。

<私の願い>

とにかく「戦争は絶対にしてはいけない」。このひと言に尽きる。核兵器を保有することも絶対に反対だ。 戦争は多くの人が亡くなってしまうのは言わずもがなだが、そこに生きる人たちも満足に食べられず、好きなこともできない。貧しい生活を強いられることになる。

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