永田 良幸
永田 良幸(81)
永田良幸さん(81)
爆心地から0・5キロの長崎市城山1丁目で被爆
=大村市原町=

私の被爆ノート

「どうして」思いあふれ

2014年3月13日 掲載
永田 良幸
永田 良幸(81) 永田良幸さん(81)
爆心地から0・5キロの長崎市城山1丁目で被爆
=大村市原町=

原爆投下の前夜は空襲警報が一晩中鳴りやまず、防空壕(ごう)で家族と過ごした。当時は中学1年。150メートルくらい離れた城山1丁目の自宅から食料や水を持ってくるため、壕との間を頻繁に行き来した。

9日朝、空襲警報が解除された。「学校に行こう」と友達が迎えに来たが、3歳になる親戚の子守で忙しく、「行けない」と伝えた。学校に行ってもどうせ勉強はできず、動物のふんを畑にまいて耕す毎日だった。

家の中で、親戚の子どもをおぶって窓から顔を出し、庭の母と話していた。外で遊んでいる妹の姿も見えた。その時、「グワーッ」という大きな音がした。直後、爆風で部屋の奥に吹き飛ばされた。気が付くと、家は崩壊し、左手をやけどしていた。おぶっていた子どもは無事だった。

がれきから抜け出し、防空壕に行くと、変わり果てた母の姿があった。顔はただれ、胸は真っ赤に腫れてむき出しになっていた。妹は即死だったという。壕の中にあふれた死臭を、今でも覚えている。

夜が明け、母や頭をけがした弟と寝泊まりできる場所を探した。城山国民学校の校長室が焼け残っていると聞いて行ってみると、無傷に近い状態。金目の物もあったが手を付けなかった。4日後、消防隊員が救助にきたため校長室を出た。その日の夕方、校長室が火事になった。

母は14日に死んだ。もともと病気だった父に代わり、私が付き添い長崎医科大付属病院で看病を続けていたが、母から「伯父を呼んできてほしい」と頼まれ、病院を離れた間に息絶えた。前日には弟が死んでいた。

母は焼かれるために50人ほどの遺体と一緒に山積みにされた。母の遺体を見つけ、別れを告げた。焼け跡から誰のものか分からない骨を2、3本拾った。「何で、どうして」という思いがあふれだし、泣いた。

<私の願い>

人を殺せば普通は刑務所行きだが、戦時中には勲章が与えられる。人間のエゴ、いやらしさを感じる。アメリカは、勝ちが確定的だったのに原爆を落とした。種類が違う二つの爆弾で、威力を試す人体実験をした。家族が死んだ分だけアメリカ人を殺したい、私は最近までそう思っていた。

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