石丸 由夫
石丸 由夫(79)
石丸由夫さん(79)
爆心地から2キロの長崎市西北郷(現在の柳谷町)で被爆
=長崎市岩川町=

私の被爆ノート

左半身焼けただれた母

2013年7月4日 掲載
石丸 由夫
石丸 由夫(79) 石丸由夫さん(79)
爆心地から2キロの長崎市西北郷(現在の柳谷町)で被爆
=長崎市岩川町=

当時11歳で、西浦上国民学校の6年生だった。あの日、近所の友達2人と、自宅裏の雑木林で木の実を弾にした竹鉄砲で遊んでいた。ちょうど、2人が木に登って木の実を落とし、自分が拾っているときだった。

「また飛行機の飛びよるぞ」。頭上から聞こえた瞬間。ものすごい風が起こり、吹き飛ばされた。両親の顔が走馬灯のように駆け巡り、初めて死を意識した。そして気を失った。

気が付くと、木の実を拾っていた場所から10メートルほど離れていて、すぐ脇に大木がなぎ倒されていた。自分との間隔は約20センチ。ぎりぎりで下敷きにならず、命拾いしたことを知った。頭がぼーっとしたまま帰宅。自宅は竹やぶに囲まれていて無事だった。道の向こうの住吉神社付近は火がごうごうと上がっていた。

昼間だというのに辺りは薄暗い。何が起きたのか確かめようと、自宅そばの線路に向かった。線路上をぞろぞろと歩いてくる人たちが見える。皮膚は赤く焼けただれ、衣服はぼろぼろ。誰もが「水をくれ」と叫んでいた。

すぐさま自宅裏の井戸に行って水をくみ、ひしゃくで必死に分け与えた。「飲むな。水を飲んだら死ぬぞ」。そう怒鳴る声も聞こえたが、分け与え続けた。

数時間後、畑仕事に出ていた母が帰宅。自宅から数百メートルしか離れていなかったのに、顔も含めて左半身が焼けただれていた。それが母だとは信じたくなかった。

それから2週間ほど、自宅で母を看病した。何をしていいか分からず、体中からうじが湧くのを止められなかった。しょうゆを塗ったりもしてみたが、どうにもならなかった。

母は佐賀の病院に移り、少しずつ回復していった。後から聞いた話で、あの日一緒に遊んでいた友達2人も助かっていたことを知った。

<私の願い>

核がいかに恐ろしいか。兵器がどれだけ怖いか。軍事教育は人を狂わせ、戦争は人を狂気の世界に引き込んだ。それはどんな状況下でも、あってはならない。自分の子や孫、将来の子どもたちに悲惨な思いはさせたくない。福島では原発の問題も起こっているが、被ばくという意味では原爆と同じ。

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