脇山 順子
脇山 順子(76)
脇山順子さん(76)
爆心地から3・3キロの長崎市鳴滝町で被爆
=長崎市鳴滝1丁目=

私の被爆ノート

黒い雨 降るのを見た

2013年7月11日 掲載
脇山 順子
脇山 順子(76) 脇山順子さん(76)
爆心地から3・3キロの長崎市鳴滝町で被爆
=長崎市鳴滝1丁目=

当時8歳。長崎師範学校付属国民学校(現在の市立桜馬場中の場所)の3年生だった。8月9日は夏休みで兄2人と妹、弟の5人で鳴滝の自宅2階の一室にいた。2月に父を病気で亡くしたため県立高等女学校で働いていた母は、この日も家を空けていた。

天気が良く暑かったが、扇風機もないので窓は開けていた。遠くから飛行機の爆音が聞こえた。皆で窓際に駆け寄って音がする方を見た。一番上の兄が「落下傘みたいなのが…」。そう言った瞬間、何も見えなくなり、ピカーッと閃光(せんこう)が走った。吹き飛ばされたのか、気付いたときには5人とも1階の玄関のたたきに伏せていた。家の中はたんすや本棚が倒れ、窓ガラスは割れてめちゃくちゃだった。

防空頭巾をかぶり、きょうだい5人で、歩いて10分ほどのところにある水道管が通るトンネルの中に避難した。食料配給時代。「いざというときは持って行きなさい」との母の言いつけ通り、「配給通帳」を持って家を出たので食べ物をもらうことができた。周囲の人が「えらかったね」と褒めてくれたのを覚えている。

その後、母も無事戻り、しばらく避難所と自宅を行ったり来たりして過ごした。自宅の縁側に座っていた時、空が真っ黒に染まり、黒い雨が降るのを見た。

8月15日。「天皇陛下の大事なお話がある」と近所の広場に集められた。なぜ大人は泣いているのだろうと思った。後で母から、戦争が終わったから堂々と明かりをつけてもいいことや、小さな声で話さなくていいことを教えられた。あの爆発が原爆と知ったのは、随分後だった。

(料理研究家として)食文化を伝える活動をする今の自分にとって、戦時中の経験が「食は命なり」と考える原点になっている。

<私の願い>

平和だからこそ自由にものが言えて、参政権などいろんな権利を行使することができる。そのことを大切に、どんな社会をつくるか考えてもらいたいし一人一人が食を大事にしてほしい。自分は食料のない時代に生き延びたからこそ、8歳で亡くなった同級生たちの分まで生きていかなければと思う。

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