田中 親子
田中 親子(87)
田中親子さん(87)
入市被爆
=長崎市立山5丁目=

私の被爆ノート

弟、親類が悲惨な死

2011年2月17日 掲載
田中 親子
田中 親子(87) 田中親子さん(87)
入市被爆
=長崎市立山5丁目=

当時21歳。長崎市三ツ山町で父母、きょうだいの家族11人で暮らしていた。

あの時、私は実家の農業を手伝っていて、近くの田んぼで家族と草取りをしていた。音には気付かなかったがピカッと何かが光り、背中が温かくなった。爆風が運んだのか、田には灰が積もり、「伊良林」と宛先が記されたはがきの燃えかすが飛んできた。

2日後の11日。「浦上が大変げなばい」と近所の人から聞いて、本原町に住んでいた母のいとこのことが心配になり、両親と一緒に家を訪ねた。

三ツ山町から1時間ほど歩くと、浦上川の岸に2、3頭の馬や牛があおむけで死んでいた。道路脇の畑には茶色く焼けただれた数十体の遺体が並んでいた。着物は焼けてしまったのか、どの体も肌がむき出しだった。付近に漂っていた何とも言えない臭いが、今でも忘れられない。

当時、本原町辺りは畑が広がっていて、ぽつぽつと農家があった。つぶれている家も多く、親類が風呂屋を営んでいた木造家屋も爆風の影響でぺしゃんこだった。警防団の人たちが崩れた柱などを切って取り除くと、家の下敷きになっていた親類の女性が見つかった。息はなかった。がれきの片付けのために、その後数回、親類宅に通った。

原爆では、当時17歳で海星中の生徒だった弟も失った。弟は8月9日、爆心地に近い大橋付近で原爆に遭った。側溝に落ちたが大きな外傷はなく、その日の夕方、自宅まで戻ってきた。

帰宅直後は体調に目立った異変はなかったが、数日後に苦しみだした。血が通う爪の奥の薄紅色の肌を見つめて「こげな色ならまだ大丈夫。生きられるばい」と気丈に話していたが、1週間後、洗面器がいっぱいになるほどの鼻血を流し、家族にみとられて死んだ。

「被爆者だと分かると縁談が破談になる」というようなうわさも聞いたが、数年後に結婚。専業主婦だったからか、差別を受けた記憶もない。だが、子や孫に被爆時の話をしたことはない。

<私の願い>

平和な時代が続き戦争の記憶が風化しつつある。原爆の痛みを自分自身の肌で感じていない世代に被爆体験を伝える難しさを感じる。だが、あんな経験を後の世代にしてほしくない。困難な道だとは思うが、子や孫の世代には戦争や核兵器、憎しみのない平和な世の中をつくっていってほしい。

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