松代 一昌
松代 一昌(81)
松代 一昌さん(81)
川棚海軍共済病院で救護し被爆
=南島原市加津佐町=

私の被爆ノート

ものすごい閃光と爆音

2010年10月28日 掲載
松代 一昌
松代 一昌(81) 松代 一昌さん(81)
川棚海軍共済病院で救護し被爆
=南島原市加津佐町=

東彼川棚町にあった川棚海軍工廠(しょう)の魚雷工場での夜勤を終え、寄宿舎で横になっていた。眠っていても分かるほどのものすごい閃光(せんこう)と、「ドーン」という爆音。跳び起き、友人とすぐに外に出て、裏山に駆け上がった。

火薬のにおいがした。「近いぞ。諫早か」。そう言うと、友人が「いや、長崎ばい」と言う。はるか遠くで上がる炎を、ぼうぜんと見つめた。

当時、旧制島原中学3年の16歳。学徒動員で、大村の第21航空廠で飛行機の組み立てに従事していたが、1944年10月25日の空襲で工場が壊滅したため、川棚の魚雷工場に転属になっていた。

裏山から戻り、「長崎に新型爆弾が落ちた」と知る。夕方、舎監から「救援列車が来る。手が空いているものは全員救護活動に行け」と命令された。走って向かった川棚駅は、けが人や看護師らでごった返していた。

顔や髪が焼け、性別が分からない人がいた。傷口にうじがわいている人もいた。目を背けたくなるようなやけどを負った人ばかりだった。ホームに座り込む人を、担架やリヤカーなどを使って、次々に川棚海軍共済病院に運んだ。病院は廊下まで人で埋め尽くされた。

駅に戻ると、小学2年ぐらいの男の子2人が「兄ちゃん助けて」と言う。1人をおんぶしてトラックに乗せ、もう1人を立たせておんぶすると、手にヌルッとした感触があった。焼けただれた男の子の皮膚だった。「痛いか」と聞くと「痛くない」と答える。感覚さえなかったんだと思う。

その男の子は水を欲しがったが、軍医から「水はやるな」と言われており、飲ませなかった。今でも思う。あの男の子は生きられたのだろうか。こっそり水を飲ませてやればよかった、と。

深夜に寄宿舎に戻ると、長崎の方の空は真っ赤だった。その夜は寝られず、2日ぐらい食事がのどを通らなかった。
<私の願い>
原爆の悲惨さは忘れない。核を使った争いはしてはならない。もし使ったなら、人類は滅亡してしまう。一刻も早く、核廃絶の方向に進んでほしいし、核のない世界の実現を願う。米国の核実験は納得いかない。オバマ大統領には長崎、広島に来て、原爆の怖さ、被害の実態を知ってもらいたい。

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