久松 忠
久松 忠(80)
久松 忠さん(80)
入市被爆
=長崎市琴海戸根町=

私の被爆ノート

運び続け死体の山

2010年8月26日 掲載
久松 忠
久松 忠(80) 久松 忠さん(80)
入市被爆
=長崎市琴海戸根町=

当時、西彼村松村の青年学校1年の15歳。お盆前の暑い盛りで、「あの日」も焼き付けるような日差しが降り注いでいた。村松村の自宅裏の田んぼで除草作業をしていると突然、稲妻のような光が田んぼ一面に走り、突風が吹き付けた。すぐに長崎方面の空を見上げるときのこ雲が見えた。「ただごとでない何かが長崎に起こった」と直感した。

午後になると、警防団から招集がかかったが、情報は何も入らず、待機するだけで解散した。翌日の招集でようやく「長崎に新型爆弾が落とされたらしい」と耳にした。

11日、長崎市内に住んでいた伯父家族が心配で、近所に住んでいたいとこと歩いて市内に向かった。町の風景は爆心地に近づくにつれ、がれきの山へと変わっていった。大橋までくると、腹がぱんぱんに膨れ、男女の区別もつかない黒焦げの死体がごろごろと転がり、浦上川には死体が折り重なり、川を埋め尽くしていた。

伯父の家は崩壊していたが、家族は近くの防空壕(ごう)に避難しており無事だった。胸をなでおろし、この日はいとこと2人で自宅に戻った。

翌12日、警防団から長崎に応援に行くよう言われ、近所の人たち10人ほどと再び市内に入り、浜口付近で死体を収容した。崩壊した建物が煙を上げるなか、2人一組で竹の担架をかつぎ、一体一体運ぶと、すぐに死体の山ができた。

初めのうちは「この人にも親やきょうだいがいただろうに」と哀れんで担架に乗せたが、途中から「品物を運んでいるんだ」と自分に言い聞かせた。あまりの数の多さに、そうでも思わないと気が狂いそうだった。

担架から死体を下ろすとき、竹にへばりついた皮がずるっとむけ、赤い肉が見えた。この時ばかりは「なんて哀れだ」と思わずにいられなかった。あの時かいだ死体のにおいは今も記憶に残っている。
<私の願い>
被爆から65年が過ぎ、私たち被爆者に残された時間は少なくなっている。当時を思い出すと、悲しすぎて涙も出ず、本当は思い出したくないが、あの悲惨な光景は後世に語り継ぐ必要があると思う。語り継ぐことで、「二度と戦争はしてはいけない」との思いを強めてもらい、平和が続くことを願う。

ページ上部へ