中尾ミドリ
中尾ミドリ(96)
中尾ミドリさん(96)
入市被爆
=長崎市上黒崎町=

私の被爆ノート

何もなかった駒場町

2010年8月5日 掲載
中尾ミドリ
中尾ミドリ(96) 中尾ミドリさん(96)
入市被爆
=長崎市上黒崎町=

疎開先の時津で米軍機が見えた。その飛行機はマッチ箱のようなものを落とし、次の瞬間空全体が真っ白に光り、地響きと風が私が立っている場所にも押し寄せた。焼けただれて死んだ人や、まだ生きている人がトラックに乗せられ運ばれてきて、学校も公民館もお寺もいっぱいになった。「新型爆弾で長崎全滅」と聞いた。

駒場町の両親が心配だった。駒場町が爆心地そばであることなど知らなかった。8月10日午前3時、2歳前の長女を背負い出発した。時津からひたすら南へ歩き、夜が明けるころ、大橋にたどり着いた。炎が残っていた。あちこちに真っ黒に焼けた裸の死体。

浦上川には、人が折り重なって死んでいた。その上から「水」「水」と言いながら、また人が飛び込んでいった。これは地獄だと思った。背中の娘は火が付いたように泣き続けた。31歳の私は混乱し、正気を失いそうだった。

駒場町は何もなく広々として、人ひとりいなかった。台所のタイルの模様でようやく実家が分かった。台所には人の姿に積もった灰があり、母であろうと思った。その近くに手足のない真っ黒に焼けた死体があり、これが父かと思った。

どうしても持って帰りたくて、父の首を取ろうとしたが取れなかった。男の人が来て「僕が取ってあげましょう」と言い、刃物で父の首を切ってくれた。防空ずきんに父の頭と母の灰を包み、今度は国鉄の線路を歩いて帰った。線路にも死体が折り重なっていて通れず、「なむあみだぶつ」と唱え、踏んで進んだ。申し訳なかった。正気でなかったかもしれない。でも、私にはほかにどうしてよいか分からなかった。

夫は出征し、娘を抱えて暮らす戦時の日常は大変だった。でも私は戦争の恐ろしさを知らなかった。もちろん原爆のむごさも知らなかった。それは突然私と家族を襲った。時津に帰り着くと、私も娘も高熱で倒れ、何日も死のふちをさまよった。夏になると毎晩夢を見る。両親との思い出、あの日のこと。ずいぶん長生きしたが、父と母が自分たちの命を私に与えたのだと思う。
<私の願い>
戦争は恐ろしく、あってはならない。私は、亡くなった人を涙で送ることしかできなかった。どうしても話しておかなければならないと思った。

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