神田 源隆
神田 源隆(81)
神田 源隆さん(81)
爆心地から3キロの元船町3丁目(当時)で被爆
=平戸市川内町=

私の被爆ノート

海に飛ばされ命拾い

2010年6月17日 掲載
神田 源隆
神田 源隆(81) 神田 源隆さん(81)
爆心地から3キロの元船町3丁目(当時)で被爆
=平戸市川内町=

当時16歳。平戸の中野国民学校を卒業後、福岡の海員養成所を経て日本郵船神戸支店の船員になっていた。兵員輸送用に建造されていた「鶴岡丸」受け取りのため、しばらく長崎市万屋町の旅館に滞在していた。あの日は暑い朝だった。建造先の三菱重工長崎造船所に向かうため、元船町の浮桟橋まで歩いてきていた。

桟橋近くには同僚3人のほか、知り合いの荷揚げ作業員がいたのを覚えている。私は半袖に長ズボン、作業員は上半身裸で仕事をしていた。

迎えの船を待とうと、桟橋に腰掛けた時だった。赤黒い閃光(せんこう)が走り、浦上方面が真っ黒に煙っているのが目に入った。驚いて5、6歩走ったところで爆風に見舞われ、海に飛ばされた。

数十秒は海中にいただろうか。必死に桟橋まで泳ぎ戻ったが、同僚や作業員の姿は消えていた。身に着けていた腕時計の針は、(原爆投下時刻から1分後の)11時3分を指して止まっていた。浦上方面に向いていた右腕や顔は大やけどを負った。海中にいたため、熱風を吸い込まなかったのが命拾いにつながったと思っている。

旅館に戻る途中、立ち寄った防空壕(ごう)の中で、作業員を見つけた。腰から上が焼けただれ、うめき声を上げて転げまわっていた。旅館は屋根が飛ばされていたため、5日間ほど風頭山の墓地で過ごし、担架で救護所になっていた長崎高商(現在の長崎大経済学部)の講堂に運ばれた。

むしろを敷いた講堂には負傷者が並べられ、次々と息を引き取った。講堂にいた40日間で隣の7人が死亡。窓の外には、火葬される煙が幾筋も見えた。

平戸の実家に戻ると、焼け焦げた顔に最初は家族も戸惑ったが、名前を告げると泣いて喜んでくれた。今も夏になるたび、ケロイドになった腕がうずくが、生きていてよかったと実感している。
<私の願い>
絶対に戦争を起こしてはいけない。外交や宗教の力で、争いが起きないよう解決するべきだ。しかし、現在の日本も多くの自殺者や交通事故死亡者がおり、決して平和とは言えないだろう。「人を殺してはいけない」「授かった命を大切にする」という道徳教育を全国で推し進めてほしい。

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