谷口 幸輔
谷口 幸輔(80)
谷口 幸輔さん(80)
爆心地から約1.1キロの大橋町で被爆
=長崎市田中町=

私の被爆ノート

命からがら山を越え

2010年3月11日 掲載
谷口 幸輔
谷口 幸輔(80) 谷口 幸輔さん(80)
爆心地から約1.1キロの大橋町で被爆
=長崎市田中町=

後日聞いたが、姉はわたしの姿を見て「助からないと思った」と言っていた。

当時、県立工業学校の3年生で、15歳だった。学徒動員で三菱兵器大橋工場にいた。工場内の木工場で、魚雷と分からないように覆い隠す木枠を作る作業に従事していた。工員も含め50人くらいが働いていた。

その日も木工場で作業をしていた。真夏の木工場は暑く、作業中は上半身裸だった。午前9時ごろに空襲警報が鳴り、近くにある畑や木々が生い茂る山に逃げた。空襲警報が警戒警報に変わったので、木工場に戻った。

「あと少しで昼飯だ」。そう思いながら作業を再開すると、突然ピカッと辺りに閃光(せんこう)が走った。真っ暗になり、「ボーン」という爆音も響いた。わけも分からずとっさに作業台の下に寝そべっていた。

どのくらい時間がたったか分からないが、立ち上がると、皆ががれきの中からはい出てきた。わたしは窓際の席で、背中にガラスの破片がのめり込んで出血していた。

建物は完全に崩壊しており、同じ作業にあたっていた同級生3人でとにかく逃げた。上半身裸ではだしのままだった。途中、工場の柱の下敷きになっている人もいた。

炉粕町に姉が住んでいたので、西山の方から山を越えてそこを目指した。背中からの出血がひどく意識はもうろうとした状態で、どう歩いたかは覚えていない。後で「よく歩いてきたものだ」と思ったほど。命からがら山を越えて逃げた。

夕方、ようやく馬町付近に着いた。上半身裸のわたしに近くにいた女性が「何か着るものを」と、家から衣服を持ってきて着せてくれた。

姉の家に着くと、そのまま眠ってしまった。夜中に親たちがリヤカーを引いて迎えに来たが、寝たまま運ばれたのでよく覚えていない。その後2日間は寝たままだった。思い返してみても、よく助かったものだと思う。
<私の願い>
今も世界では核兵器を造っている国が存在する。その国を追随する動きもみられる。「やめろやめろ」と言うが、核はなくならない。
原爆は常識では考えられないこと。核兵器で死んでいった同級生もいる。市民全体で核廃絶を訴えていかなければいけない。被爆者も声を上げていくべきだ。

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