木場七之助
木場七之助(79)
木場七之助さん(79)
入市被爆
=新上五島町若松郷=

私の被爆ノート

兄と再会 抱き合い涙

2009年11月26日 掲載
木場七之助
木場七之助(79) 木場七之助さん(79)
入市被爆
=新上五島町若松郷=

現在の五島市出身で、地元尋常高等小学校を卒業した後、親元を離れて長崎市城山町の寮から浜口町の三菱長崎工業青年学校に通っていた。

当時15歳。授業は週に1回しかなく、学校では銃や剣を磨かされていた。それ以外は、長与の工場などで、魚雷の製造をしていた。

8月9日は、魚雷の中に入り、寝そべって電灯で手元を照らしながら燃料パイプなどを付けていた。ピカッと花火のように光り、ドンと地の底から揺れる音が響いた。爆風がきて、ガラスもカーテンも吹っ飛んだ。体を守る余裕はなく、生き埋め状態になった。近くに爆弾が落ちたと思った。

けがはなかった。工場の仲間と長崎市大橋町(当時)の三菱長崎兵器製作所大橋工場へ向かった。戸板でけがをした人を線路まで運んだ。助け出した人を触ると、皮膚がベロンとはげ、爆風で服が飛んでいる人もいた。やけどを負い、田んぼでパチャパチャと水を浴びている人もいた。日が暮れるまで、「自分も死ぬかもしれない」と思いながらも、ずっと運んだ。大橋工場の敷地内で死んだ人の脇で寝た。疲れ果てていたし、場所を気にする余裕はなかった。

10日は昼すぎまで戸板で人を運び、2番目の兄を捜しに茂里町の三菱長崎製鋼所に向かった。

建物も木も倒れてしまい、道路はがれきでいっぱい。目が飛び出た状態で亡くなった人がいた。川に浮いた死体を見た。黒焦げの馬が倒れ、腹はパンパンだった。場所は定かでないが兄と再会し、「生きていたか」と抱き合って涙した。長男が暮らす竹の久保町で、戸板を集めて屋根を作り、2人で寝た。11日朝、長男と再会した。竹の久保町に住む親せき3人は亡くなっており、荼毘(だび)に付した。

その後は大波止の旅館にしばらく滞在した。兄弟3人や親せきと、郷里の五島へ貨物船で荷物に交じって帰った。
(上五島)

<私の願い>
私は幸運にも助かったが、たった1発の原爆で、同級生や職場の仲間など、たくさんの人が死んでしまった。直接的なけがだけでなく、心臓や肝臓が悪くなるなど、今なお原爆症も引き起こしている。恐ろしく思う。戦争や原爆は二度とごめんだということは、被爆者の共通の思いである。

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