山口 悦夫
山口 悦夫(87)
山口 悦夫さん(87)
爆心地から2.7キロの五島町で被爆
=長崎市滑石1丁目=

私の被爆ノート

爆風で吹き飛ばされ

2009年11月5日 掲載
山口 悦夫
山口 悦夫(87) 山口 悦夫さん(87)
爆心地から2.7キロの五島町で被爆
=長崎市滑石1丁目=

九州配電(現九州電力)の諫早営業所に勤務していた。23歳だった。8月2日から7日までは爆撃で被害を受けた浦上地区の配線の復旧工事に当たっていた。9日は報告のため長崎市五島町の事務所に向かった。

事務所には午前10時ごろ着いた。1時間ほどで報告を終え、帰ろうと玄関を出た瞬間、「ピカッ」と目がくらむほどの光線が走った。辺り一面は黄色い煙に巻かれた。逃げようとしたが、今度は爆風で近くの倉庫に吹き飛ばされた。気が付くと、まるで硫酸でもかけられたように頭、顔、腕がものすごく熱かった。

再び事務所に戻ると、玄関のシャッターはあめ細工のように折れ曲がり、中では顔面血だらけの女性社員が髪を振り乱して泣き叫んでいた。その日はけがを治療して明朝出てくるよう指示を受けた。

愛宕の親族の家に行ったが爆風でめちゃくちゃになって泊まれる状態ではなかった。事務所に戻ろうとしていると、知り合いの社員と小島のあたりで偶然出会い、一緒に人が集まる道路沿いの空き地で一夜を明かすことにした。薄暗くなり、高台から市街地を望むと県庁などの建物が炎々と燃え上がっていた。不安で一睡もできなかった。

翌朝、被爆状況の集約などの報告書を諫早の営業所長に手渡すという任務を与えられた。諫早までは「道ノ尾駅まで行けば列車に乗れる」と聞き、歩いて向かった。途中、街中では電車の中でつり革を持ったまま、三輪車のハンドルを握ったままで死んでいる人もいた。やっとの思いで道ノ尾駅に着いた。

列車は重傷者優先だったが、事情を話し次の列車に飛び乗った。車内は真っ黒にやけどした人も乗っていて異様な悪臭が立ち込め、降りたくなったが、早く着かなければ、と思いとどまった。

諫早に着いたのは夕方だった。所長に報告書を手渡したところまでは覚えているが、そのまま気を失ってしまった。気が付くと自宅に寝ていて、両親の顔を見た途端、思わず涙があふれた。
<私の願い>
原爆は人間の尊厳を無視して、むごたらしい死に方をさせる。そんな兵器は絶対造ってはいけない。核廃絶に向けた動きは広がりつつあるが、世界のありとあらゆる人が同調してほしい。今後、「核のない世界を」という流れができれば、核兵器はなくなるのではないか。

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