北 昇一
北 昇一(77)
北 昇一さん(77)
爆心地から1.8キロの銭座町で被爆
=長崎市滑石3丁目=

私の被爆ノート

外国人捕虜と出くわす

2009年8月20日 掲載
北 昇一
北 昇一(77) 北 昇一さん(77)
爆心地から1.8キロの銭座町で被爆
=長崎市滑石3丁目=

当時、13歳。県立瓊浦中1年生だった。父は出征中。母、弟2人、妹と5人で銭座町(現在の銭座町のそばの天神町)に暮らしていた。あの日、中間テストを終え、帰宅。早めに昼食を取り、自宅を出たときだった。

ピカッ。何百もの写真機を同時にたいたような、ものすごい閃光(せんこう)。すぐ近くの民家に逃げ込んだ。

気付いたら、がれきの下敷きになっていた。自力で外に出ると、目の前の通りを長崎駅方面に向かって、負傷者がぞろぞろと歩いているのが見えた。首が後ろに直角に折れ曲がった赤ちゃんを背負うおばあさんもいた。

自宅に戻り、家族と合流して、立山方面に歩いた。途中、名刺より一回り大きいサイズの宣伝ビラを拾った。そこには「日本国民に告ぐ 即刻都市より退避せよ」との見出し。続いて文章があり、「原子爆弾を投下する」と書かれていた。おそらく米軍が原爆投下後にばらまいたものだったようだ。オーストラリア人やオランダ人の捕虜40~50人の集団とも出くわした。口々に片言の日本語で「米軍は悪い。おれたちがここにいるのを知っていたはずだ」とわめいていた。

諏訪神社近くの防空壕(ごう)に着くと、日本人の20歳前後の海軍兵が担架に乗せられていた。海軍兵は、目を閉じたまま「自分はこんなところで死ぬんじゃない。敵艦に体当たりして死ぬんだ」とつぶやいた。負傷してもなお、国のために命をささげようと意地を見せる海軍兵に、周りの人たちは涙していた。

その壕で4~5日間、過ごし、自宅に戻った。投下直後の状況と違い、一面焼け野原になっていた。仕方なく母の実家があった伊王島に渡った。

20年前に胃がんを患い、3分の2を摘出。腸の病気も患った。当時は、頭が真っ白で逃げるのに精いっぱいだったが原爆の体験は鮮明に覚えている。これまでは他人に話さなかったが、年齢を考えると、伝えないといけないという気持ちになった。
<私の願い>
原爆に遭った苦しみや痛みは、体験した者にしか分からない。世界の指導者たちにはこの苦しみや痛みが分からないので、核兵器廃絶は厳しいだろう。平和のためには、身の回りのいじめからなくさないといけない。人の痛みがわかるような教育をするべきだ。

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