宮原 公志
宮原 公志(79)
宮原 公志さん(79)
爆心地から1.8キロの長崎市家野町で被爆
=対馬市上対馬町鰐浦=

私の被爆ノート

何もかも原爆で死んだ

2009年7月23日 掲載
宮原 公志
宮原 公志(79) 宮原 公志さん(79)
爆心地から1.8キロの長崎市家野町で被爆
=対馬市上対馬町鰐浦=

長崎市家野町にあった長崎師範学校1年2組に在籍。15歳だった。あの日は良い天気で、広島に新型爆弾が落ちたという新聞記事を朝読んだ。体育の授業が終わり、音楽室に入るところだった。

その瞬間、雷が何百も落ちたようなものすごい光と音。学校前で工事中だった高圧線の事故かと思った。音楽の先生が血を流し「やられた」と額を押さえてやって来た。外に出るとガラス片でほおに穴が開いた同級生に会い、腰に着けていたタオルを裂いて手当てをして、近くの防空壕(ごう)まで逃げた。

寄宿舎や周囲の木造住宅は燃え、鉄筋の建物だけが残っていた。髪が焼け焦げた女の人や体が焼けただれた人がいたが、私はガラスで右手を切ったぐらいだった。

しばらくして学校に戻るよう連絡があり、大八車で川平町の農家に行き、白米をもらって学校でおにぎりを作って配った。

体育の授業で外に出ていた1組の生徒の中には耳が焼け落ち、片側の顔が焼け、ガラス片が刺さっている人もいた。「もうだめだ。病院に行かなくていい」とあきらめる人もいたが、重傷者は戸板に乗せて線路まで運び、列車に乗せた。

84人ほどいた同級生のうち7人が死んだ。お骨を入れる木箱を作り、私は同級生や先輩、先生の奥さんらの遺体を3、4体焼いた。1人を焼くのに相当の木材が必要だった。

夜は学校の農園にあったナスビやカボチャ、鶏を煮込んで食べた。学校前の竹やぶで寝たが、蚊がいなかった。何もかも原爆で死んでいた。

11日に大橋を通ると浦上川に豚のようにまるまる膨らんだ死体が折り重なりひどい光景だった。すさまじい原爆の威力。同じ人間にこんなことをしていいのかと思った。

12日に長崎をたち、16日に福岡から船で対馬の厳原に到着。3日かけて鰐浦まで歩いて帰った。体は骨と皮だけになり、数カ月寝込んだ。便から粘膜が出て死ぬかと思った。あの夜、放射線を浴びた野菜や鶏を食べた影響だと思う。
(対馬)

<私の願い>
原爆は非人間的な兵器。地球を守るという意味でも核兵器だけでなく、原子力をなくさないといけないと思う。人も国も自分のことばかり考えると争いが起きる。自分さえ良ければいいではなく、相手のことを思う惻隠(そくいん)の心を持つことが大事だと思う。

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