太田 靖彦
太田 靖彦(75)
太田 靖彦さん(75)
入市被爆
=長崎市田上4丁目=

私の被爆ノート

“生き地獄”歩き続ける

2007年11月22日 掲載
太田 靖彦
太田 靖彦(75) 太田 靖彦さん(75)
入市被爆
=長崎市田上4丁目=

当時十三歳。旧制中学に通っていたが、既に授業はなく、学徒動員のため、甑岩(こしきいわ、現・長崎市田手原町)付近で、本土決戦に備え、戦車をがけから落とすための人工の「戦車断崖」を作っていた。

あの日、敵機が上空を飛んでいる音が聞こえたような気がした。しばらくして、「ピカッ」と光ったと思うと次の瞬間、「ドーン」。大きな音が耳に飛び込んできた。作業をしていた全員が、自分の間近に爆弾が落ちたと思い、すぐに木の陰に隠れた。ケガはなかった。

作業は中止、帰宅を命じられた。当時の住まいは稲佐町。父母や兄弟の安否を気に掛けながら、不安な気持ちで帰途に就いた。山を下ってみると、矢上方面に向かい、ぞろぞろと歩く人の行列が続いていた。人々は被爆のため皆黒ずんでおり、傷を負い血をたらしながら体を引きずっている人もいた。異様な光景だった。

既に市街地は火の海と化していた。火の手を避けながら、家に帰ろうと立山に登ったものの、下り口を探して下っても、火の手に遮られまち中に出ることができず、登っては下りを繰り返した。

山の中にも死体は、そこら中に転がっていた。その惨状は、口では言い表すことのできない、まさに生き地獄。しかし、自分も既に、平静を失っていたようで、「怖い」「かわいそう」というたぐいの気持ちは全くなかった。「水をください」「ここはどこですか」。助けを求める言葉も聞こえたが、どうすることもできず、ただひたすら家に帰ることだけを考えて歩き続けた。

どこをどのように歩いたのか。火の手の具合や、地形を見ながら、やっとの思いで、銭座町の変電所の前に出ることができた。あたり一面が焼け野原だったが、正面には稲佐橋。橋を渡って家にたどり着いた。しかし、建物は全壊。家族の姿はない。日は暮れていた。

近くにある防空壕(ごう)に走った。防空壕の中は、人でごった返していたが、その中をかき分けるようにして壕内に入ると、ようやく母と弟の姿。二人ともケガはしていたが、ひと安心した。
<私の願い>
原爆の悲惨さは、口では表現できない。実際に遭った者にしか、その悲惨な状況を理解することはできないだろう。人類は、核兵器廃絶を願うだけでなく、戦争のない世界を目指す必要がある。国家が乱立する限り、必ず国家間で争いが生じる。それを防ぐには「世界連邦」の創設しかない。

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