古瀬 一枝
古瀬 一枝(73)
爆心地から1.4キロで被爆
=長崎市城栄町=

私の被爆ノート

家族4人 自宅でだびに

1998年9月4日 掲載
古瀬 一枝
古瀬 一枝(73) 爆心地から1.4キロで被爆
=長崎市城栄町=

当時、二十歳で、淵国民学校(現在の淵中の場所)の教師をしていた。同僚の先生たちと職員室から図書室へ本を運ぶ作業中、鉄筋コンクリート建て校舎の二階の廊下を歩いていると、飛行機の音が聞こえた。思わず伏せた瞬間、ピカッと光が走り背中に熱さを感じた。

その直後、ガーンと耳を裂くような音がし「この世の終わりか」と思うほど、辺りは薄暗くなった。逃げようと思っても腰が抜け、立つこともできない。ガラスが飛び散った廊下や階段を必死ではいながら駆け下りた。ガラスの破片が刺さった足のすねのことなど全く気付かないほど必死だった。玄関を出ると、髪を振り乱し顔や体から血を流した人たちが助けを求めて叫んでいた。

学校の坂道を下りた野原で同僚の先生たちと野宿した。夏なのにとても寒く肩を寄せ合って寒さをしのいだ。野原にはけがをして逃げてきた人たちでいっぱいだった。三十、四十歳の男性が子供の手を引きながら「もう一度、お母さんに会いにいこうか」と言っている姿を見てとてもいたたまれない気持ちになった。

夜中、顔から首にかけてけがをした友人が、迎えに来た父親に連れられてリヤカーで帰っていく姿を見た。私も「帰りが遅くなるといつもしかっていた厳しい父だから、必ず迎えに来てくれるはず」と期待を抱いて待っていた。

翌朝、自宅へ向かう途中、目に入ったものは焼け野原となった町、焼けた遺体で埋め尽くされた浦上川だった。惨状を目の当たりにし機銃掃射の中、城山町の自宅へ急いだ。家は跡形もなく、周りを囲っていた溝の存在だけが分かるぐらいで、ただぼう然とした。翌日、自宅の敷地内で母、弟二人、妹らしき遺体を見つけ、先生たちの手助けで、自宅でだびに付した。他の家族の生死は確認することができなかった。

数日後、母の実家である島原から来た知人に連れられて島原へ向かった。祖母の顔を見るなり、思わず涙があふれてきた。“あの日”から張り詰めたものが切れ、初めて泣いた。
<私の願い>
「家族を失い死んでしまった方がいい」と思ったこともあったが、今では生きていてよかったと感謝している。世界中では今も戦争が絶えることがない。戦争で家族を失った子供たちが孤独感を味わうようなことがあってはいけない。平和な世の中がずっと続いてほしい。

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