西村 正昭
西村 正昭(64)
爆心地から2.6キロの長崎市東中町(現・上町)で被爆
=西彼琴海町西海郷=

私の被爆ノート

泣き叫ぶ声いまも脳裏に

1997年10月23日 掲載
西村 正昭
西村 正昭(64) 爆心地から2.6キロの長崎市東中町(現・上町)で被爆
=西彼琴海町西海郷=

当時、勝山小学校の六年生。旧東中町(現在の上町)にあった自宅は「戦時学舎」といって近所の子供たち十二、三人が集まって自習をする場所になっており、指導の先生が回って来ていた。

その日も朝から集まったが、空襲警報が鳴ったためいったん解散。その後、みんな遊んでいたのだろう、警報が解除になっても戻って来ず、私も家の下にあった県官舎の庭で、下級生とセミを捕って遊んでいた。下級生はカンコロを持っており「セミを捕ったらやる」という。桜の木の下で、鳥もちを付けたさおを伸ばし、捕まえた瞬間、ピカッと空が光った。

少し飛ばされたようだったが、周囲がコンクリートの塀で囲まれていたため、そう大きな衝撃はなかった。粉じんが舞い、たちまち辺りは真っ暗。これは何かと、無我夢中でがれきに埋まった道を上手にある唐人墓地へと逃げた。

しばらくして足の不自由な父を思い出し、家に駆け付けると、窓やかわらは吹き飛ばされ、畳はめくれ上がった状態。頭を負傷した父を中二の兄とふろしきで手当てし、リヤカーに乗せて、本河内の防空ごうへと避難した。

被災者たちでごった返した道を、兄がリヤカーを引き、私が道の障害物を片付けながら進む。兄の話では、家のふろを洗っているとき落下傘が落ちてくるのを目撃。慌てて家の中に逃げ込んだところで「ドン」ときたらしい。

翌日、ごうの中で母や姉とも再会。避難して来た人たちは、坂道を上って来る救援のトラックの音を、飛行機の爆音と勘違いするほどおびえ切っていた。終戦の十五日までここで過ごした。

戦後しばらくの間、学校の運動場や空き地で、夜になるといつも死者を焼く火がトロトロと燃えていた。近所に二十歳ぐらいの学生さんがいて、三菱の兵器工場で被爆したらしい。外傷は見えなかったが、一週間ぐらいして亡くなった。婚約者だったらしい娘さんも死んで、二人一緒に火葬された。

火の中に投げ入れる木切れが二人の体に当たる。家族の泣き叫ぶ声が、今も強烈な記憶として残っている。
<私の願い>
手帳友の会では被爆二世に対する医療の無料化をスローガンに運動している。二世の人たちには自らの健康と、被爆体験の継承に一層の関心を持ってもらいたい。老齢化が進む中、やがて自分たちの時代がやってくる。核問題への積極的な取り組みがほしい。

ページ上部へ