小嶺千鶴子
小嶺千鶴子(66)
爆心地から約3.3キロの長崎市伊良林の自宅で被爆
=長崎市弥生町=

私の被爆ノート

兵器製作所で友を捜す

1996年5月16日 掲載
小嶺千鶴子
小嶺千鶴子(66) 爆心地から約3.3キロの長崎市伊良林の自宅で被爆
=長崎市弥生町=

当時、長崎高等女学校の四年生(十六歳)。買い出し休暇の名目で休みを取り、同級生と伊良林の自宅にいた。一瞬、オレンジ色の閃光(せんこう)と、ものすごい爆風に二人とも窓の下にうずくまった。その頭上でカーテンはちぎれ、ガラス戸も吹き飛び、何が何だか分からないまま、ガラスの破片が飛び散る中を駆け下りた。

二人とも泣きながら自宅の防空壕(ごう)に滑り込んだ。B29のひっきりなしの爆音に生きた心地はせず、父と母、姉とともに手を握り、声も出ずガタガタ震えていた。

四、五日後、家族の反対を押し切って、同級生と茂里町の兵器製作所に、いつも一緒に働いていた友達の牟田照子さんを捜しに行った。馬の死体や焼け焦げた電車などが転がる地獄の中を必死に走った。やっとたどり着いた工場はひどい惨状。一階には男女の区別もつかぬほど黒焦げの人、一杯の水ですぐ息を引き取った人。どんなに苦しかったことか。

茂里町のガソリンスタンド跡には亡くなった人が四、五十人並べられていた。大きくはれ、手は虚空をつかみ、そのままの姿で息絶えた姿に手を合わせ、友達の姿を捜した。不思議なことに恐怖感はなく、ただ悔しくて涙がボロボロこぼれた。灰の中に友達のもんぺのひもの布端を見つけた。その友達はクレーンの下敷きになり、火が目前に迫ったとき、時計を外し「お母さんにあげてください」と頼んで亡くなったと、後で聞いた。私はそのけなげさに号泣した。

大橋の兵器製作所に勤めていたもう一人の姉は原爆投下の日の夕方、ぽろくずのような姿でつえをつき、はうようにして帰ってきた。二、三カ月間脱毛や下痢が続いたが、奇跡的に元気になった。幸せな結婚をし、二人目の子供をみごもったとき、突然吐血し手術のかいなく、がんでこの世を去った。一人娘を案じながら三十三歳の死だった。

私自身、被爆後二週間、口内出血や下痢が続いた。その後回復したが、五十歳ごろまで八月になると寝込んでいた。
<私の願い>
核兵器廃絶が願い。核実験には腹が立つより悲しくなってしまう。どうして人類も地球も滅ぼすものを造り続けるのか。広島、長崎の原爆による惨状を知ればできないはずだ。原爆の怖さを語り継ぎ、平和を守っていかなければならない。

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