小山 正志
小山 正志(80)
爆心地から約4キロの長崎市松が枝町の自宅で被爆
=長崎市松が枝町

私の被爆ノート

クラスの半分 姿見せず

1996年5月23日 掲載
小山 正志
小山 正志(80) 爆心地から約4キロの長崎市松が枝町の自宅で被爆
=長崎市松が枝町

その時、私は長崎市松が枝町の自宅玄関にいた。迎えに来た職場の同僚とお茶を飲み、出勤の準備をしていた時だった。「ドン」というものすごい音と衝撃。とっさに生後間もない長男を抱え、自宅裏の防空ごうに飛び込んだ。何が何だか分からなかった…。

当時私は、浦上川近くの淵国民学校高等科で教員を務めていた。受け持っていたのは旧制中受験のための特別クラスで、男子ばかりの六十人。年のころは今でいう中学二年生だ。

受験クラスのため学徒動員はなく、その代わり子供たちには毎朝の新聞配達が義務づけられていた。校区内に配給所(新聞販売店)は三カ所。通勤前に配給所を回り、子供たちを見送るのが私の日課だった。

戦局は日々悪化の一途。子供たちには「日本は負ける戦はしない。必ず勝つ」と言って励ましていたが、八月に入ると空襲もあり、犠牲になったのか、配給所に行っても子供の数が少ない。そんな日が一週間続いただろうか。

そして九日。あの日は朝から空襲警報が鳴っていた。どうも様子がただ事ではない。「気をつけて配達しなさい。何かあったらすぐ防空ごうに避難するように」。そう言って子供たちを送り出した。

その日学校に宿直することになった私は、夜食用の食料を取りにいったん帰宅。同僚の下田君が迎えに来たのが午前十時半ごろだったと思う。祖母は「B29の音がする」と言ってしきりに空を気にしていた。その瞬間…。あの時お茶を飲まずにすぐ出勤していたなら、私たち二人は間違いなく死んでいただろう。

血だるまで歩いている人、黒焦げの死体、転がった電車。外の惨状に私は放心状態だった。恐怖を通り越して何も感じなかった。

通っていた学校は跡形もなく全壊。約十日後、別の国民学校に子供たちを集めたが、私のクラスは半分もいなかった。姿を見せなかった彼らを、その後見ることはない。あの日の朝、肩から新聞を下げ、元気に「行ってきます」と出掛けていった子供たちの後ろ姿を、私は今でも忘れることができない。
<私の願い>
国や人種は違っても、すべて同じ人間。けんかをする前に相手の気持ちを理解し、お互い助け合わなければならない。人間はけだものとは違う。子供たちの心を育てる教育が大切だ。

ページ上部へ