堂尾みね子
堂尾みね子(66)
爆心地から約1.3キロの三菱兵器大橋工場で被爆
=長崎市岩屋町=

私の被爆ノート

菜の花畑の幻覚見る

1996年3月14日 掲載
堂尾みね子
堂尾みね子(66) 爆心地から約1.3キロの三菱兵器大橋工場で被爆
=長崎市岩屋町=

私は当時十五歳で、瓊浦高等女学校四年生。学徒動員されていた。ピカッと光った瞬間「魚雷が破裂した」と思い、とっさに目と耳を覆って伏せた。

黒焦げの死体を飛び越え、よろけながら歩いているおじさんについて正門に出た。二人の同級生と一緒に逃げようとしたがついて行けず「先に逃げて」「後でこんね」と言葉を交わし別れた。

土手を越え、爆風で根こそぎ倒れた寺の大木の陰に身を潜めた。左腕のやけどと右腕のけががズキズキと痛み出した。背中に生ぬるいものを感じた。左耳から右耳にかけ右側を三センチほど残し後頭部が切れていた。ゴルフボールくらいの大きさで、指の第二関節まで入るほど深かった。意識がもうろうとし、悪寒がして幻覚を見た。果てしなく続くあぜ道を、はだしで歩いていた。菜の花畑が広がり、小春日和でいい気分だった。赤い鳥居の向こうで手招きしている白い衣の老人について行こうとして「眠っちゃいかんぞ」という声に呼び戻された。

師範学校の生徒が道路沿いまで運び、ほかの負傷者と一緒に寝かせてくれた。夕方ごろ父が名前を呼びながら捜しに来た。もうろうとした意識の中で返事をした。戸板で滑石の軍医に運ばれ、治療を受けた。

体に紫斑(しはん)が出て、髪の毛が抜けた。約半年でけがは治ったが、髪の毛が生えそろうまで十年間かかり、ほとんど自宅で「幽閉」状態だった。化粧品会社の長崎駐在員を一年半した後、昭和三十一年から約三十年間、東京本社勤務で働いた。焼けただれたクラスメートたちの顔を美しくしたいという願いがあった。三百人の社員を抱える管理職も務めて退職。七年前に帰郷した。

一昨年、恐れていたがんが見つかり、左の乳房を切除。背骨付近など三力所にはガラスが刺さったまま。奇形児の誕生を恐れ、結婚しなかった。ふと「私の人生は何だったんだろう」と考えることがある。死後は、研究のため献体しようと思っている。
<私の願い>
平和の隅に追いやられた老人たちによって平和の基礎はできた。若い人たちには、日本という狭いステージではなく、どの国とも仲良く手をつないでいけるよう、国際的マナーを身に着けてもらいたい。「ありがとう」「ごめんなさい」が言える平穏な日常であることが平和に通じると思う。

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