宮本美重子さん(79)
被爆当時6歳 西浦上国民学校1年 爆心地から1.8キロの長崎市家野郷(当時)で被爆

私の被爆ノート

気が付くと家の外に

2019年01月24日 掲載
宮本美重子さん(79) 被爆当時6歳 西浦上国民学校1年 爆心地から1.8キロの長崎市家野郷(当時)で被爆

 春に西浦上国民学校に入学。「さとうみえこ」と自分の名前を書けるようになり、うれしかった。夏になると、学校のそばの川で泳いだり、岩の上を跳んだりして遊んだ。戦況は厳しくなっていたのだろうが、まだ小さい自分にはよく分からなかった。
 父は徴兵され、現在の長崎大付属小辺りにあった自宅で、母ときょうだい、5人で暮らしていた。母は時津村(当時)の畑を借りて野菜を育てていたので、食べ物には困らなかった。
 あの日、母は朝から畑へ出掛け、きょうだいで留守番をしていた。ままごとをしたり、水鉄砲をしたり、思い思いに過ごしていたその時。突然、閃光(せんこう)のようなすさまじい光に目がくらんだ。爆風で吹き飛ばされ、気が付くと家の外に座り込んでいた。家は崩れなかったが、畳がめくれ上がっていた。
 「逃げるよ!」。防空ずきんをかぶり、七つ上の姉に手を引かれ、近くの防空壕(ごう)へ走った。何が起こったのか。怖くて、とにかく急いだ。壕の中には近所の大人たちがいて「入らんね、入らんね」「美重子ちゃん、無事やったね」と声を掛けてくれた。母も無事帰ってきて、ようやくほっとした。そのまま壕の中でひと晩過ごした。
 夏休みの間、自分だけ時津村の親戚の家に世話になることになった。母と一緒に向かう道中、亡くなっている人や倒れたままの馬などを見てぞっとした。後日、長崎に落とされたのは原子爆弾だったと聞いた。戦争が終わった。仲が良かった友達の“レイコちゃん”が亡くなったと知らされた。「水をちょうだい」としきりに言っていたそうだ。あの日に一命を取り留めても、何日も苦しんで亡くなった人がたくさんいた。
 やがて父が戦地から無事戻ってきた。どこの国に行っていたのか、そこでどんな経験をしたのか、詳しいことは分からないまま。父も話さなかったし、聞けなかった。戦争や原爆のことを家庭で口にするのは、タブーだった。
 原爆傷害調査委員会(ABCC)から通知が届き、定期的に検査するようになった。若いころは実験台にされているようで嫌だったが、今ではありがたいと感じている。時々、被爆者健康手帳について「もらえて、よかね」と耳にする。複雑な気持ちになる。被爆者になりたくてなった人なんていないのに。

<私の願い>

 戦争はみんなを苦しめる。絶対にしてほしくない。みんなが幸せになることが一番。そのためには、思いやりが大切だと思う。親が自分の子どもを殺すというニュースに心が痛む。子育ては苦労もあるが、思い悩まず、周りを頼ってほしい。

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