江口英夫さん(82)
被爆当時8歳 山里国民学校3年 入市被爆

私の被爆ノート

道端に転がる死体

2018年02月07日 掲載
江口英夫さん(82) 被爆当時8歳 山里国民学校3年 入市被爆

 長崎市岡町で、7人きょうだいの四男として生まれ育った。当時は両親と7歳違いの弟の4人で暮らしていた。学校が夏休みだったため8月初旬、家族4人で現在の佐賀県小城市辺りにあった父方の親戚の家に遊びに行った。親戚は農家で、その手伝いをして過ごした。食べるものには困らず、おにぎりを食べていた。
 8月9日。両親がどこからか、「長崎に爆弾が落ちて、まちが丸焦げになっている」と聞き付けた。家族で唯一、長崎市内にいた20歳ほど年の離れた姉のことが心配になり、すぐに4人で捜しに行くことになった。どうやって長崎まで行ったかは覚えていないが、10日ごろに市内に入ったのだと思う。
 東古川町で美容院をしていた姉とは、無事に再会できた。だが自宅のあった岡町は見渡す限り焼け野原になっていた。道端にごろごろと転がった黒焦げの死体は、顔の判別もできないほどだった。その死体を棒切れのように重ね合わせて燃やす様子を見て、怖くてたまらなくなった。具合が悪くなるような臭いがしたのも覚えている。本当に無残な場面で、子どもながらに戦争のすさまじさや恐ろしさを感じた。かわいがってくれた母方の親戚が松山町にいたが、遺体も見つからなかった。
 長崎にとどまっても、寝ることもご飯をまともに食べることもできないと、佐賀の親戚の家に家族で戻ることになった。2、3年後、親戚の近くにあった馬小屋を改装して移り住んだ。母親の体が弱かったので、山にまきを拾いに行ったり、遠くまで水をくみに行ったりして手伝った。お金がなく生活は厳しかった。米がないときは、昼はふかしたサツマイモ、夜はイワシ1匹と漬物を食べてしのいだ。そんな生活が何年も続いた。
 通った小中学校では、原爆が落ちた長崎から来たということで、陰口を言われたり、避けられたりした。中学の途中まで佐賀で暮らし、その後家族で岡町に戻った。もしも長崎に原爆が投下されていなければ、そのまま笑って暮らすことができたのにという思いは消えない。佐賀で過ごした日々は、子どもだった自分にとって本当につらく厳しいものだった。また若い頃から、何かにつけて体が本調子ではなく、毎日頭痛に悩まされてきた。病院に行ったが、原因は分からないままだった。

<私の願い>

 テロなどで、市民が何十人も死亡したというニュースを見聞きする。それがいつか大きな戦争につながるのではないかと、とても心配している。そうなったら最後。戦争は多くの人の命を平気で取っていく。二度と戦争はしてほしくない。

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