山下フジヱさん(89)
被爆当時15歳 救護被爆

私の被爆ノート

救護所で見た死と生

2018年12月27日 掲載
山下フジヱさん(89) 被爆当時15歳 救護被爆

 

 1945年春、従軍看護婦になろうと大阪の看護学校に入学したが、大阪大空襲で学校が燃え尽きた。あの日を迎えたのは、西彼三重村畝刈郷(当時)の実家に疎開中のことだった。
 母や友人と庭先で涼んでいた時だった。矢筈岳の向こうで、飛行機から落下傘がゆらゆら落ちるのを見た。その瞬間、辺り一面が目も開けられないほど強い光に包まれた。とっさに伏せたのと同時に、ドーンというものすごい音が響く。「家の近くに爆弾が落ちたんだ」、そう思った。
 翌日、長崎市内の住吉の工場で被爆したいとこが、戸板に乗せられ運ばれてきた。脚の骨はむき出しで、包帯にうじがわいた。病院に連れていったが、どうしようもなかった。数日後、いとこはこの世を去った。
 14日、日本赤十字社長崎県支部から非常招集の電報が届き、長崎に向かった。道中、道ノ尾あたりから景色が一変した。爆心地に近づけば近づくほど、見渡す限り建物はつぶれ、あちこちからうめき声が聞こえてきた。浦上川は死体が大量に浮いていた。そんな中、キョウチクトウだけが鮮やかに咲いていた。
 15日から長崎経済専門学校(現長崎大経済学部)の臨時救護所で重傷患者の処置に当たった。ガーゼの代わりに浴衣を切り、塩水で傷口を洗浄した。できることは、ほとんどなかった。水を求めてうめく声があちこちから聞こえたが、声を出せる人はまだよかった。2、3割の人は翌日まで命が持たなかった。
 忘れられない光景がある。夜勤の時、息絶えそうな母親と赤ん坊の姿を目にした。翌朝様子を見にいくと、母親はわが子をしっかり抱き締めたまま、息を引き取っていた。赤ん坊は冷たくなった乳房にしゃぶりつき、絞り出すような声で泣いた。死んだ母親と、1人残された赤ん坊-死ぬ者と生きる者、一体どちらが苦しかっただろう。
 1週間ほどして、新興善国民学校の臨時救護所に異動。治療水準は米軍の関与で向上した。ただ、運動場で焼かれる死体や、精神を病んでひたすら歩き回っている女性の姿は今でも鮮明に思い出す。
 戦後、看護学校に通い直し、長崎原爆病院の設立に関わった。約半世紀、看護師を続け、たくさんの人の死を見届けてきた。だが、原爆で苦しみながら亡くなった数多くの身元不明の人たちの命を忘れることはできない。

<私の願い>

 若者が、どこの国とも自由に行き来して、文化交流しながら生きられる状態であればいいと思う。戦後73年が過ぎ、被爆者も年々少なくなってきた。被爆体験者については、一日も早く法的に被爆者として認められることを願っている。

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