里登喜男さん(82)
被爆当時9歳 北大浦国民学校3年 爆心地から3.4キロの東山手町で被爆

私の被爆ノート

火の粉で空が赤く

2018年12月13日 掲載
里登喜男さん(82) 被爆当時9歳 北大浦国民学校3年 爆心地から3.4キロの東山手町で被爆

 北大浦国民学校3年生だった。長兄は予科練に入って木更津航空隊におり、両親と姉、次兄、妹の6人で暮らしていた。姉と私、妹は食事のときは自宅に戻り、普段は旧制海星中のグラウンド下に造られた防空壕(ごう)で過ごしていた。
 8月9日午前。自宅で朝食を食べた後、防空壕に戻った。ずっと壕にいるのも良くないと思い、外の石垣に腰掛けていると、辺りがピカーッと光った。爆風はひどくなかったように感じる。活水女学校(当時)の校舎などで遮られたのではないだろうか。気付いた時には、防空壕の中で倒れていた。電気が消え、隣の防空壕との壁が崩れており、何が起きたのか分からず恐ろしかった。
 時間がたって暗くなり、腹が減ってきたこともあって、外に出てみた。ふと活水女学校の方を見ると、火の粉が飛び、空が真っ赤に染まっていた。恐らく長崎駅の辺りが燃えていたのではないか。「ここにいては危ない」と近くの杉林へ逃げ込んだ。夜が明け、大浦出雲町(当時)にある叔父の家へ向かった。今考えると、実際は割と距離がある。よく移動したなと思う。大浦地区には、新聞紙のようなものを体に巻き付けて浦上方面から帰宅する負傷者もいたらしい。母に「家に引っ込んでいなさい」と言われたため、実際には負傷した被爆者の姿を見てはいない。
 6歳上の次兄は旧制東陵中の学生で、普段は学徒動員のため三菱長崎造船所幸町工場に勤務していた。この日は、たまたま弁当を忘れて引き返したため、自宅で被爆。肩に腫瘍ができ、肺に転移して約10年前に亡くなった。腫瘍は被爆の影響だろうかと思う。
 終戦から約2週間後、木更津から帰る長兄を迎えに行こうと、姉と2人で長崎駅まで歩いた。自宅周辺を離れ、爆心地の方向へ近づいたのは初めてだった。道にはがれきの山ができ、家が崩れたような跡もあり驚いた。のどが渇いたときには、破裂した水道管から水を飲んだ。結局、この日は兄と会えなかった。後から聞くと、一緒に帰って来ていた佐賀県出身の知人に「長崎はもうなかばい」と聞き、途中下車して数日お世話になっていたらしい。2人で駅まで迎えに行った日から1週間後くらいに帰って来た。
 被爆体験が乏しいと感じ、これまで語ってこなかった。しかし戦争や核兵器を無くすため、声を上げなければと思っている。

<私の願い>

 被爆者が団結し、核兵器禁止条約の発効を訴えていかなければならない。平和運動のあり方を根本から変えることが必要だ。8月にお祭り騒ぎするだけでは駄目。田舎では被爆者団体が解散している。活動を考える時期に来ていると思う。

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