松尾シズ子さん(81)
被爆当時7歳 爆心地から6キロ離れた西彼日見村(当時)で被爆

私の被爆ノート

家族亡くし独りに

2018年10月18日 掲載
松尾シズ子さん(81) 被爆当時7歳 爆心地から6キロ離れた西彼日見村(当時)で被爆
 6人きょうだいの5番目で、父、三女、長男、五女は戦時中に病気で亡くなっていたため、当時、母と10歳上の次女と3人で西彼日見村にある父方と母方の実家を行き来して暮らし、長女は諫早の旅館で住み込みで働いていた。
 あの日の朝、長崎市の三菱兵器工場で働いていた次女は「行ってきます」と言って元気に家を出た。私は、父方の実家で祖母と昼食の準備をするため、実家の井戸から水をくんでいた。すると突然ピカッと光り、見る見るうちに空が暗くなっていった。音は記憶にない。すぐに実家の家の中に掘ってあった防空壕(ごう)に入った。
 10分ほどたち、母方の実家にいた母親のことが気になって様子を見にいった。母は無事だった。実家の近くに住んでいたラジオを毎日聞いているおじさんに状況を尋ねると「あんたの姉ちゃんが大変ばい」と告げられた。
 午後3時ごろだろうか。上空から、本の燃えかすがひらひらと落ちてきた。母方の実家の納屋側にある池にも燃えかすが落ちていて、拾ってみると「山里小」「城山小」の文字が書かれていた。「2学期になったら、どうするんだろう」と心配になった。
 あたりを見渡すと、子どもをおぶった女性たちが数人、長崎市から諫早方面に向かって歩いていた。その人たちに次女の所在を尋ねたが、知っている人はいなかった。見ず知らずの女性に実家で採れたジャガイモを渡すと、とても喜んでくれた。
 午後4時ごろ。次女と同じ職場の娘がいる近所のおじさんと母の2人は、共に娘を捜すため長崎市に向かった。「お姉ちゃんは帰ってくる」。そう信じていた自分は、父方の実家で安心して寝ていた。
 次女が亡くなったのを知ったのは9月上旬。長女が、次女の骨が入った箱を目の前に持ってきて見せようとしたが、怖くて拒んだ。長女は、担架で諫早の国民学校に運ばれた次女を亡くなるまで看病していた。長女によると、学校には焼け焦げて、男か女か分からない人々がたくさんいたという。次女は8月12日に息を引き取り、荼毘(だび)にふされた。次女はずっと「日見に帰りたい」と言っていたそうだ。
 終戦後、長女と母親が立て続けに亡くなり、独りぼっちになった。「生き残った以上はしっかりせんば」と思って無我夢中で生きてきた。

<私の願い>

 結婚し、子ども3人に恵まれ、やっと幸せな気分になった。争いが絶えることは難しいかもしれないが、平和であってほしい。母が「二度と戦争はしてはいけない」と言って亡くなっていったのが、今でも記憶に残っている。

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