松本美都恵さん(76)
被爆当時3歳 西彼長与町で被爆

私の被爆ノート

弁当箱と髪を墓に

2018年10月4日 掲載
松本美都恵さん(76) 被爆当時3歳 西彼長与町で被爆
 
 当時、3歳。49歳の父、29歳の母、64歳の祖母、22歳の叔母と5人で長崎市西坂町で暮らしていた。当時の記憶はおぼろげだが、母や祖母から被爆体験を聞いていた。父は、三菱長崎兵器製作所茂里町工場に勤めていたが、8月初めに職場に焼夷(しょうい)弾が落ちたため、仕事は休みになっていた。叔母は茂里町の三菱病院浦上分院で看護婦をしていた。
 仕事が休みになった父は、西彼長与町百合野で疎開先として知人に借りた小屋を家族で住めるよう整えていた。9日は、そんな父が待つ小屋へ行こうと母が私を連れ、午前8時半ごろに家を出た。途中で三菱病院浦上分院に寄り、前夜から夜勤の叔母に、いった大豆を渡した。叔母は「なるべく影を選んで行かんばよ、何があるか分からんけん気を付けてね」と言い、見送ってくれた。叔母とはそれが最後の別れになった。
 母は炎天下、私をおぶって歩いた。小屋に着き、母が私を下ろし、げたを履かせようとしたその時だった。非常に明るいだいだい色で、まるでカメラのフラッシュを何百個もたいたような異様な光が辺りを照らした。それは今でもはっきりと覚えている。
 母はとっさに私を抱き上げて目と耳をふさぎ、小屋の奥の大きいかめのそばでうずくまった。私は「何が起こったんだろう」と不安に思い、じっとしていた。庭にいた父は、爆風で崖下に吹き飛ばされた。幸いにも3人にけがはなく、祖母も夕方にこちらに着き、母と抱き合って喜んだ。
 ただ、叔母だけは帰ってこず、両親と祖母は翌日から交代で捜して歩いた。長崎市はもちろん、諫早市、大村市までむしろをかけた遺体を見て回ったそうだが、叔母は見つからなかった。
 祖母は夜、少しでも音がすると「シメちゃん(叔母の名前が〆子)じゃなかろうか」と起き上がり、ため息をついては怒り出し「米国のやつどもが殺しよって」などと言っていた。結局、叔母が勤める病院で骨は見つからず、最後にいたとされる場所付近にあった弁当箱に、そのそばにあった髪の毛の燃え残りを入れ、墓に納めたそうだ。
 話は聞いていたものの、墓から納骨堂に移す時にそれを初めて見た。弁当箱はアルミ製で大きく、黒焦げのご飯と土で汚れた黒髪が入っていた。叔母のものではないかもしれないが、家族にとっては大事な御骨。思わず手を合わせて拝んだ。
◎私の願い

 仕返しの連鎖が戦争につながると思っている。けんかをして、悔しい思いをしても相手に仕返しをしないでほしい。18歳になると選挙権を持つ。若い人は棄権するのではなく、平和な世の中にするために考え、大切な1票を投じてほしい。

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