宮本誠さん(79)
被爆当時6歳 仁田国民学校1年 爆心地から4.1キロの長崎市中新町で被爆

私の被爆ノート

孫への影響 不安

2018年09月06日 掲載
宮本誠さん(79) 被爆当時6歳 仁田国民学校1年 爆心地から4.1キロの長崎市中新町で被爆

 
 あの日、学校は夏休みだった。長崎市中新町で祖母と6歳上の姉の3人で暮らしており、自宅近くで近所の子ども数人と遊んでいた。すると「ウー」というサイレン音。鐘が鳴り、「敵機来襲」との声が聞こえてきた。

 そばにいた近所の女性が「みんな防空壕(ごう)に入って」と叫んだ。逃げ込むと女性が私たちの体に布団をかぶせて、その上から覆いかぶさってきた。暗闇の中を光が走り「ドドドーン」とすさまじい音。大地震のような揺れが襲った。何が起きたのか分からず、ただぼうぜんとしていた。
 30分ほどたって外に出ると、浦上方面が赤々と火の海になっているのが分かった。自分も、その後に落ち合った祖母や姉もけがはなく無事だった。夕方になると、市内中心部から頭に包帯を巻いたり、けがをしたりした人が何人も逃げてきた。
 21歳で結婚。その後、妻が爆心地からほど近い距離で被爆しており、原爆傷害調査委員会(ABCC)の調査を受けていると知った。外国人からじろじろ体を見られるのが嫌だという妻に言った。「原爆で苦しんでいる方が大勢いる。何かの役に立つのであれば協力せんといかん」
 被爆して一番苦しかったのは、妻の妊娠や出産にまつわること。結婚したころは「被爆者は流産したり、子どもが健康に生まれなかったりする」などと言われていた。妻が妊娠するまでは「子どもができるか」と心配し、妊娠したら「元気に生まれるのか」と不安だった。妊娠中絶ができなくなるまでは、妻に産んでもらうか何度も悩んだ。初めて赤子と対面したときは、手や足の指がそろっているかをまず確かめた。幸いにも授かった3人の子どもは健康に育ってくれたが、今でも頭の片隅には不安が残る。「孫やひ孫は大丈夫だろうか」と。
 この夏に初めて、妻と2人で県内の中学校で被爆体験を語った。わが子がいわれのない差別や偏見にさらされるのが嫌で、これまでは語ってこなかった。でも被爆者が少なくなる中、元気なうちに戦争や原爆の悲惨さを語らなければならないと思ったからだ。
 中学生たちはインターネットで調べたのか、原爆の仕組みや被害の規模などはとても詳しかった。けれど、当事者の不安や痛み、苦しみはネットだけでは分からない。これからも自らの肉声で子どもたちに経験を伝えていきたい。

<私の願い>

 戦争はない方がいいし、日本から仕掛けるなんてとんでもない。ただ、平和を守るには一人一人が自分の国を守る覚悟も必要だ。政府は核兵器禁止条約を批准し、核廃絶へ中心となって動いてほしい。核兵器を一部の国だけが持つのは不公平だ。

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