堀政子さん(88)
被爆当時15歳 長崎医科大付属病院看護学校2年 爆心地から0.7キロの長崎市坂本町(当時)で被爆

私の被爆ノート

奇跡重なり生きる

2018年08月23日 掲載
堀政子さん(88) 被爆当時15歳 長崎医科大付属病院看護学校2年 爆心地から0.7キロの長崎市坂本町(当時)で被爆
 
 さまざまな“奇跡”が重なり、今生きている。

 あの日は見習い看護婦として、長崎医科大付属病院(現長崎大学病院)の眼科の診察室にいた。婦長に消毒液を取ってくるよう指示され、退室。品物を取り、婦長に渡して再び部屋を出た。午前11時2分、廊下にいたところ、爆風で倒れたガラス戸の下敷きになり、意識を失う。室内にいた同僚数人は亡くなった。
 それから3カ月ほどの記憶は、ほとんどない。後に母や妹に話を聞き、多くの人に助けられ、運にも恵まれ、生かされたと知った。
 「大学病院は全滅」。そう耳にした母は11日、私を捜すため、片淵の自宅からおにぎりとキュウリ、ドクダミ草を煎じた飲み物を入れた水筒を携え、金比羅山を越え、病院に向かった。山道では助けを求める声が絶えず、母は食べ物を少しずつ分けてあげ、でも、娘の分を残すため、最後は謝りながら先を急いだ。
 私は病院近くの防空壕(ごう)に避難しようとしたが、入り口付近で力尽き、中には入れず、その場で軍医の治療を受けていた。近くを「佐竹(旧姓)政子を知りませんか」と尋ね回っていた母。その声を聞いた私は、とっさに「お母さん」と声を振り絞った。
 当然、その時を覚えていない。本当に声を出して呼んだのか-。無事を祈る母の思いが奇跡を起こし、私の心の声が届いたのかもしれない。傷だらけで顔も腫れた娘の姿に、母は最初疑ったが、母の着物で作った、しましまのモンペで確信した。「政子か」
 「いつもより重い」と感じながら娘を抱え、母はゆっくりと歩を進めた。すると、担架を持った6人ほどの青年と偶然出会い、家まで運んでくれた。到着し、母がはさみでモンペを切り裂くと、大量のガラス片がこぼれ落ちた。頭や腕などに多数のけがを負ったが、病院には行けず、母が付きっきりで看病。近所の人が赤チンキやオキシドールを持ってきてくれた。
 終戦後に母と交わした会話だけは、なぜか覚えている。「お母さん、終戦って、戦争が終わったってこと?」。その問いに母は「そうだよ」。優しい声に安心したのか、私はまた、すぐに眠った。
 私は原爆の生の惨状を見た記憶がない。だから米国が憎たらしいとか、そんな感情はない。ただ日本は平和になったなと感じている。

<私の願い>

 多くの人が犠牲になり、ひもじい思いをする戦争は二度としてはいけないし、核兵器も絶対になくすべきだ。今の平和な日本で戦争が起きることはないと信じているが、憲法改正に向けた動きなどをみていると、少し不安な面もある。

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