岩永悦子(75)
被爆当時3歳 爆心地から6.1キロの長崎市神ノ島町(当時)で被爆

私の被爆ノート

ショックで母が早産

2018年07月12日 掲載
岩永悦子(75) 被爆当時3歳 爆心地から6.1キロの長崎市神ノ島町(当時)で被爆

 当時3歳。両親と3人で立山町の借家に暮らしていたが、8月9日は身重の母と2人で、神ノ島町(当時)の母方の実家に帰省していた。当時の記憶はおぼろげであまり残っていない。幼心にかすかに覚えているのは原爆投下2日後、母が私をおんぶして、実家の家族と父を捜しに出掛けたことくらいだ。私の原爆に関する記憶はこれだけだ。
 母はあの日、突然ドンッと鈍い爆音と地響きを聞いたという。爆風は感じず、けがもなかったが、市街地で何があったのか心配になり、急いで浜の方へ向かうと浦上方面からきのこ雲が見え、各所で煙も上がり空を黒く染めていくのが見えたと話していた。実家は無事で母方の家族にけがもなかった。
 教師だった父は当日、城山国民学校(現城山小)に日直当番で出勤し、そのまま帰らぬ人となった。生き残った教師によると、父は20歳代の若い同僚2人とともに、畳を運び出し、外で干していた最中に原爆がさく裂したという。
 「城山国民学校の被害は甚大」と伝え聞いた母は、父の安否を気遣い気が気でなかったという。そのショックで被爆翌日、早産で弟を出産したが、弟は生まれてから約1週間後、名前も付けられないうちに亡くなった。死因は分からなかったが、原爆の影響もあったのかもしれない。
 母は弟を出産した次の日から、父を捜したい一心で私をおんぶし放射線が強く残る爆心地近くに3、4日間通った。当時の神ノ島は陸続きではなかったため、市街地までは祖父が船を出した。
 山に遮られ被害が少なかった神ノ島とは打って変わり、大波止付近から国民学校までの道のりは地獄だった。川には水を求め亡くなった人が折り重なり、建造物は吹き飛び、町中は火がくすぶっていた。道端には無数の死体が転がり、がれきが散乱していたので、母は棒でよけながら進んだ。
 母は遺品でもあればと考え国民学校に通ったが、校舎の周りは黒焦げで何が何だか分からない状況だった。父は宿直室付近にいたと聞いていたため、その辺りの土を持って帰ったという。
 母は59歳で乳がんになり、66歳で再発し亡くなった。家族では祖母が膵臓(すいぞう)がんで、祖父と叔父も別のがんでこの世を去った。かくいう私も、出産した次男が、心臓弁膜症が原因で丸1日で亡くなった。家族は少なからず放射線の影響を受けたと思う。(大田裕)

<私の願い>

 原爆は一瞬で多くの命を奪った。私は父を失い、母の再婚相手から虐待を受けて育った。家族を亡くしたことで家庭環境が変わり、つらい体験をした人も多くいると思う。これからも平和が続き、家族の絆を大切にする世の中であってほしい。

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