原田 覺(88)
被爆当時15歳 旧制鎮西学院中3年 爆心地から3.4キロの長崎市飽の浦町3丁目で被爆

私の被爆ノート

神も仏もない 地獄

2018年04月05日 掲載
原田 覺(88) 被爆当時15歳 旧制鎮西学院中3年 爆心地から3.4キロの長崎市飽の浦町3丁目で被爆
 中学3年生になると、学徒動員で三菱長崎兵器製作所茂里町工場に通うようになり、魚雷の製造に従事した。
  忘れもしないあの日。いつものように工場へ向かわなければならなかったが、なぜかこの日に限って行きたくなかった。これまで欠勤したことなんてなかったのに。ちゅうちょする私を見て、5歳くらい上の姉は「休んだら駄目よ」と告げ、勤務先の浦上方面の工場へ出かけていった。
  結局、私は欠勤し、自分の部屋で横になってごろごろしていた。そのうち、いつの間にか眠ってしまった。だが突然の爆発音に驚き、跳び起きた。なぜか周囲が青く見えた。部屋を見回すと、畳はめくれ上がっていた。私は5メートルほど吹き飛ばされていた。一緒に家にいた母と妹は無事だった。
  近くに爆弾が落ちたと思い、外に出て、近くの丘へ向かった。すると、浦上方面の空に黒い雲のようなかたまりがもくもくと立ち上っていた。その中には炎も見えた。
  夕方になると、家の近くの道を、やけどを負った人たちが次々と福田方面へと歩いていた。その中からうめき声も聞こえた。その後、父が仕事から帰宅し、「浦上に特殊爆弾が落ちた」と話していた。
  姉が勤め先から帰宅しなかったので、翌日、父と2人で捜しに出かけた。稲佐橋まで歩くと、橋のたもとでうずくまっている人がいた。よく見ると、背中が焼けただれた母親の胸に、乳児がすがって泣いていた。母親が「この子に水をください」と助けを求めたので、持参していた水筒の水を子どもに飲ませたが、この親子がその後どうなったのかは分からない。
  浦上川に沿って歩き続け、梁川橋あたりで川の中を見ると、たくさんの死体が流れていた。城山町周辺は一面が焼け野原。大橋町では川の中が多くの死体で埋め尽くされていた。衣服を着けていないマネキン人形を積み重ねているような状態だった。
  「助けて」「水、水」。至る所からうめき声が聞こえ、焼け焦げた異様な臭いが漂っていた。当時、恐怖は感じなかったが、「神様も仏様もない。地獄だ」と思った。
 こんな状況を目の当たりにして、姉を捜すのは困難と判断し、自宅へ引き返した。後日、被爆した姉が諫早市の海軍病院にいることが分かり、家に連れて帰ったが、間もなく亡くなった。
 

<私の願い>

 日本は被爆国として負の遺産である原子爆弾を決して所有してはいけない。先頭に立って核兵器廃絶と戦争反対に向けた行動を取るのが日本の役割ではないだろうか。そのためにも若い人たちは悲惨な歴史を真剣に学んでほしい。

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