松田 宗伍(84)
被爆当時11歳 古賀国民学校6年 爆心地から9.7キロの北高古賀村(当時)で原爆に遭う

私の被爆ノート

入市被爆を父が隠す

2018年03月21日 掲載
松田 宗伍(84) 被爆当時11歳 古賀国民学校6年 爆心地から9.7キロの北高古賀村(当時)で原爆に遭う

 北高古賀村(当時)で祖父や両親、きょうだいと9人で暮らしていた。父が病弱だったので毎日、母を手伝い畑仕事ばかりをしていた。

 あの日。父と近所の墓を掃除していた。遠くの山並みを眺めていると、山肌を光線が照らしていった。カンカン照りの空よりもっと明るい光。途端に「ドドーン」と大音響がして、西に真っ黒い雲が立ち上った。怖くなり家に走って帰った。太陽はどす黒い煙に覆われ月のように見えた。

 しばらくして、黒い灰が空から降って辺りが暗くなった。焼け焦げた書類の切れ端に「兵器工場」「大橋」などと記されていた。三菱長崎兵器製作所大橋工場で兄が働いていたので、母は心配して口も開けないほどだった。夜は西の空が明るく、火災現場を間近で見るようだった。

 数日後の早朝、兄を捜すため父と工場に向かった。山越えをして昼前、工場跡にたどり着いた。見渡す限り焼け野原で曲がりくねった鉄骨やがれきの山ばかり。コンクリート製の防火水槽だけが残っていた。地面に横たわった遺体は焼け焦げて髪の毛はなく男女の区別もつかない。腕や指は何かをつかもうとするかのように伸びていた。後日、3、4回は爆心地の近くまで行った。

 10月、西彼時津村(当時)で負傷者を収容する所に、年齢や職場が兄と同じ身元不明者が運ばれていたことが分かった。すでに亡くなっており、荒れ地に埋葬されていた。ほかに手がかりもなく両親は兄だと信じた。3年後、両親と遺骨を回収に行った。墓石の下を掘り返すと頭蓋骨は割れ、あばら骨が3本折れていた。父が骨を拾おうとしたら「ああ。血が出た」と母が叫んだ。「僕だよ」。そう母に知らせるため、兄が幻覚を見せたのかもしれない。骨箱に入りきらない骨を、母は衣類で包み持ち帰った。

 私の身にも異変は起きた。爆心地に行った数週間後、歯茎に血がにじむようになった。両親は、入市被爆をしたとして被爆者健康手帳を取得したが、父は息子が差別に遭うのを恐れて、私が共に入市被爆した事実を隠した。

 両親はすでに亡くなり、私が被爆したと証明してくれる人はもういない。手帳交付を求め、被爆者と認められていない「被爆体験者」の集団訴訟に加わったが、最高裁で訴えは退けられた。残念でならない。敗訴したほかの原告ともう一度、提訴するつもりだ。

<私の願い>

 戦争が起きたら、食べ物にも困る時代がまたやって来るかもしれない。話し合うことで戦争を避けてほしいが、話し合いで済まない時への準備は必要だ。ただ、自国も他国も暮らしているのは同じ人間なので、核兵器を再び使わないでほしい。

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