相川 文(80)
被爆当時7歳 仁田国民学校1年 爆心地から4.1キロの長崎市中新町で被爆

私の被爆ノート

理解せぬまま壕へ

2018年2月8日 掲載
相川 文(80) 被爆当時7歳 仁田国民学校1年 爆心地から4.1キロの長崎市中新町で被爆

 子どものころから音楽が好きだった。ピアノに憧れ教室で習いたいと、長年思っていたが、口には出せなかった。幼少期に戦争、原爆を体験し、我慢することが当たり前だった。

 1945年、夏。城山国民学校から仁田国民学校への転校が決まり、長崎市中新町に引っ越した。母と祖母、1歳上の姉と4人で木造長屋の6畳一間を借りて暮らし始めた。結果的に、原爆投下を前にしたタイミングで爆心地から離れることになった。そのまま住んでいたら、と考えると、人の運命は不思議だなとつくづく思う。

 あの日は、仕事に行った母を除く3人で家にいた。祖母が昼食準備のため、かまどに火をかけようとした時、外がピカッと光った。気が付けば姉は、飛び散ったガラス片で足をけが。何が何だか理解できないまま、私たちは母の妹がいるであろう、旧制海星中近くの防空壕(ごう)を目指した。

 薄暗い壕の中に、けがをした人が次々に入ってきた。何も考えることができず、壕の中で治療される人たちを見ていた。母と再会できたのは恐らく数日がたってからだった。この間、母はずっと私たちの居場所を必死に捜していたそうだ。4人で戻った家は半壊状態で、一つの戸は開け閉めができなくなっていた。

 戦争が終わっても、生活に余裕はなかった。食事は蒸したサツマイモばかり。白米が1、麦が9の割合でご飯を食べられるようになったのは2、3年後。そんな生活の中、砂糖は唯一の“デザート”だった。当時、甘いものは他になく、ティッシュに包んで、ちょっとずつ大事になめていた。小学校高学年の時には、学校の鉄棒から落ちて右足の中指を骨折。貧しくて病院には行けず、痛みに耐えた。

 中学校卒業後、長崎市内の缶詰工場に就職した。午前8時から午後5時までラベル貼りを続けて日給はわずか98円。その後、転職した先でも月収は3千円程度だった。娯楽の映画を見るような金銭的な余裕はなく、代わりに単行本を買っていろいろな想像を膨らませるのが楽しかった。

 63年に結婚。3人の娘に恵まれた。長女が小学1年になったころ、お金を積み立ててオルガンを買った。自分が幼いころに憧れた楽器。子どもたちはたまに遊びで触れる程度だったが、家の中にオルガンの音色が響くと平和になったな、と感じてうれしかった。

<私の願い>

 被爆医師の故永井隆博士の著書をモチーフにした歌謡曲「長崎の鐘」を聞くと、生きたかったのに亡くなった人の無念を感じ、涙が出てくる。若い人に私たちと同じ思いをさせないため、被爆者が「戦争はだめだ」と言い続けることが大事だ。

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