下野 富治(87)
被爆当時14歳 県立長崎中3年
爆心地から約3キロの長崎市飽の浦町で被爆

私の被爆ノート

ほおから漏れた紫煙

2018年01月11日 掲載
下野 富治(87) 被爆当時14歳 県立長崎中3年
爆心地から約3キロの長崎市飽の浦町で被爆

 長崎中は三菱長崎造船所の学校工場となり、学徒動員で魚雷や手りゅう弾の部品を作っていた。中学生でありながら、もはや職工さんのようだった。

 出来上がった部品を大八車に乗せて、長崎市飽の浦町の三菱長崎造船所に運ぶ「伝令」という役割を担っており、あの日も7、8人で運んだ。

 納品の手続きをしようと、2階の事務所に階段を上ったところで、辺りがピカーッと光り、爆風が襲ってきて、ドーンというごう音がした。1階に転げ落ち、屋根も落ちてきた。幸いにもけがはなかった。焼夷弾(しょういだん)が近くに落ちたと思った。

 今の飽の浦小付近の山に、母親が寮母として勤務する三菱の寮があったので、そこに逃げた。母親と会うことはできたが、柱が吹き飛ばされたり折れたりして被害がひどかったので、もっと遠くに逃げようと思った。母親にも逃げるよう促したが、「寮にいる人を置いては行けない」と言ってとどまった。

 私も逃げるのを考え直し、仕事に戻ろうと長崎中へ向かった。旭町まで出ると、服が焼けた人や背中にやけどを負った人とすれ違った。広島に落とされた新型爆弾のうわさは聞いていたが、それが長崎に落とされたことも、浦上が爆心地だったことも知らなかった。
 結局、長崎中へ戻った記憶はない。夜には愛宕町の自宅にいた。一緒に暮らしていた次兄と姉2人もその日のうちに帰宅。寮に住んでいた母親と妹もその後、無事を確認できた。

 被爆から数日後、母方の伯父一家を捜しに浦上へ向かった。途中、丸焦げの馬や、立ったまま自転車にまたがった状態の遺体があった。だが伯父の家付近には何もなく、全員が即死だったと思われる。

 当時、最も印象に残っているのは、新興善国民学校の救護所。恐らく誰かに「様子を見てこい」と言われたのだと思うが、いつごろ、なぜ訪ねたのか覚えていない。負傷者たちに兵隊と勘違いされ、たばこをせがまれたが、中学生なので持っているはずがない。誰かが手渡したたばこをけが人が吸うと、ガラスなどが刺さったほおから煙が漏れた。体にうじが湧いた人もおり、悲惨な光景だった。

 数日後、長与村(当時)に住んでいた親戚を頼り、疎開することになった。15日、天皇陛下の玉音放送はそこで聞いた。

<私の願い>

 戦争が起きれば、核兵器が使われるかもしれない。長崎や広島の惨状を繰り返さないためにも、とにかく戦争をしないでほしい。それに尽きる。みんながいつもにこにこと笑って生活できるよう、平和な世界になることを願っている。

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