田中熙巳さん(86) 被爆当時13歳 爆心地から3・2キロ、自宅で被爆

平和への誓い

2018年平和への誓い

田中熙巳さん(86) 被爆当時13歳 爆心地から3・2キロ、自宅で被爆

『核兵器もない戦争もない世界の実現に力尽くす』

 1945年8月9日、13歳だった私は、爆心地から3・2キロ離れた自宅の2階で被爆しました。気を失った直後、爆風で飛んできた大きなガラス戸の下敷きになりました。幸いに、奇跡的に無傷で助かりました。
 3日後の今ごろ、私は、家屋が跡形もなく消滅し、黒焦げの死体が散乱するこの丘の上を歩き回っていました。探し当てた父方の伯母の家屋跡には、黒焦げになった伯母たち家族の遺体が転がっていました。この時、丘の下の上野町では、3日間生きながらえた母方の伯母の遺体をトタン板に載せて焼いていました。焼き終えた人の形をとどめた遺骨を見たとき、優しかった伯母の姿が目に浮かび、その場に泣き崩れました。原爆により身内5人の命が一挙に奪われました。この日一日、私が目撃した浦上地帯の地獄の惨状を私の脳裏から消し去ることはできません。
 原爆は全く無差別に、短時日に、大量の人々の命を奪い、傷つけました。そして、生き延びた被爆者を死ぬまで苦しめ続けます。人間が人間に加える行為として絶対に許されない行為です。
 全国に移り住んだ被爆者たちは、被爆後10年余り、誰からも顧みられることなく、原爆による病や死の恐怖、偏見と差別などに一人で耐え苦しみました。
 ビキニ環礁での、54年3月1日のアメリカの水爆実験による「死の灰」の被害に端を発し、全国に広がった原水爆禁止運動に励まされて、56年8月、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が結成されました。
 日本被団協に結集した被爆者は、「同じ苦しみを世界の誰にも味わわせてはならない」と原爆被害の残虐な真相を、国の内外に伝え、広げ、核兵器の速やかな廃絶を世界に訴え続けてきました。
 2010年代に入り、国際政治の場において、核兵器の非人道的な被害に焦点が当てられるようになる中、長年にわたる被爆者と原水爆禁止を願う市民社会のさまざまな活動、さらにICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)の集中的なロビー活動などが実を結び、17年7月、「核兵器禁止条約」が国連で採択されました。被爆者が目の黒いうちに見届けたいと願った核兵器廃絶への道筋が見えてきました。これほどうれしいことはありません。
 ところが、被爆者の苦しみと核兵器の非人道性を最もよく知っているはずの日本政府は、同盟国アメリカの意に従って「核兵器禁止条約」に署名も批准もしないと、昨年の原爆の日に総理自ら公言されました。極めて残念でなりません。
 核兵器国とその同盟国は、信頼関係が醸成されない国が存在する限り、核抑止力が必要であると弁明します。核抑止力は核兵器を使用することが前提です。国家間の信頼関係は徹底した話し合いで築くべきです。
 紛争解決のための戦力は持たないと定めた日本国憲法第9条の精神は、核時代の世界に呼び掛ける誇るべき規範です。
 私は、多くの先人たちの働きをしのびつつ、ヒバクシャ国際署名運動をさらに発展させ、速やかに「核兵器禁止条約」を発効させ、核兵器もない戦争もない世界の実現に力を尽くすことを心に刻み、私の平和への誓いと致します。

平成30年8月9日

被爆者代表 田中熙巳