ピースサイト関連企画

戦争の記憶 2023 本田キヨ子さん(87) 空襲「姉が真横で殺された」

2023/10/04 掲載

「原爆だけじゃない。ここも確かに米軍にやられた。忘れられたらいかん」。本田キヨ子さん(87)=長崎県 雲仙市吾妻町=は、頰に涙を伝わせながら語り出した。

母亡くし乳を求めるめい

 1945年7月5日、南高来郡守山村(現在の同町)。米軍の飛行機が福岡県大牟田方向から飛来し爆撃した。この空襲で長姉=当時(29)=の命が目の前で奪われた記憶は、今も鮮明に残る。
 当時、実家の内田家は守山村で農業を営み、両親と4人きょうだいの6人家族だった。末っ子で当時9歳。畑仕事を手伝ったり、国民学校で竹やりの訓練を受けたりしていた。貧しくても、家族一緒に食卓を囲むのが楽しみだった。
 長崎市に嫁いでいた長姉、平山ハツヨさんは3歳のおいと1歳のめいを連れて実家に身を寄せていた。20歳年上であまり遊んだことはなかったが、美人で賢い自慢の長姉だった。
 7月5日。家族全員で昼食をとった。畑へ行く父を見送り、おいたちと庭で遊んでいると、対岸の大牟田方向から爆撃機が飛んで来るのが見えた。
 空襲警報が鳴った。防空壕(ごう)に行く余裕もなく、慌てて家の中に入った。上がりかまち(土間の上がり口)にハツヨさんと横に並んで座り、その前に母親が立った。ハツヨさんは泣きじゃくるめいを膝に乗せて乳を与え、おいを抱き寄せた。5人で丸く身を寄せ合い、子どもたちに布団をかぶせた。
 焼夷(しょうい)弾と爆弾が一緒に家の近くに落ちたと思った。「はらばえー(腹ばいになれ)」。ハツヨさんが叫び、土間に倒れ込んだ。
 家中は火の海だった。ハツヨさんは体を丸めたまま動かない。真っ黒な煙が立ち込める。「このままではみんな焼かれる」と思い、ハツヨさんの腕から急いでめいを引っぱり出し、おいを連れて母と外に出た。
 畑から走って帰宅した父が、ハツヨさんを燃え盛る家の中から引きずり出した。ハツヨさんは背中と右太ももに爆弾の破片が刺さり血を流していた。目を閉じたまま意識がなかった。このままでは危ないと思い、近くの島原鉄道の線路下に寝かせると、血の塊を10個くらい吐いた。
 また空襲警報が鳴り響いた。「死ぬかもしれない」。恐怖を感じながら、おい、めい、2人の姉と一緒に浜の方へはだしで逃げた。
 ハツヨさんは村にあった病院へ運ばれたが、その日の夕方前に亡くなった。病室の畳の上に寝かされ、すでに息絶えていた。めいが乳を求め、ハツヨさんのそばにはって行った。「乳は飲ませられん」と親戚に言われて抱かれ、めいがぐずり始めた。「姉の方に座っていたら代わりに私が死んで、めいをこんなに泣かせずにすんだのに」。後悔の念が押し寄せ、涙があふれた。
 守山村史(54年発行)には「守山村の田内川部落に焼夷弾と小型爆弾が落とされた。12世帯25棟が焼け、3人が焼死。牛も3頭死んだ」という内容が書かれている。焼死した3人の名前と年齢も記され、その1人がハツヨさんだった。
 「姉が真横で殺された。あんなことをまた起こしちゃいかん」。ひ孫たちが安心できる世界であるために。戦争の残酷さを埋もれさせたくない。