10年がたってもまだ娘の死を受け入れられないでいる(写真はイメージ)

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被爆・戦後75年 静子の紙芝居 思い託されて・1 【病魔】娘の最期 間に合わず

2020/07/31 掲載

10年がたってもまだ娘の死を受け入れられないでいる(写真はイメージ)

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【病魔】娘の最期 間に合わず

 6月19日、朝から断続的に雨が降り続いている。10年前も同じだった。「あの日、美和の涙雨だねって、夫と話してました」。かけがえのない存在だった娘はがんに侵され、39歳の若さで逝った。「10年たてば気持ちは変わるかなと思ってましたけど」。長崎市内に暮らす三田村静子(78)は、まだ娘の死を受け入れられないでいる。
 29歳の時、長女美和を出産。1人目ということもあり、手塩にかけて育てた。銀行員だった夫は帰りが遅く、母娘でよく語り合った。2人きょうだいの3歳下の弟真理(しんり)(46)は振り返る。「健康体で学校も無遅刻無欠席。強い姉。常に人生の先を歩き、道を開いてくれた」
 そんな美和に突然、病魔が襲いかかる。結婚し、愛知県に居を移していた2010年3月、がんの診断が下された。5月に抗がん剤治療を開始。「大丈夫、大丈夫」。電話越しに聞こえる声は明るかった。
 時を同じくして、静子に大腸がんが見つかった。自身3度目のがん。5月24日、無事に手術を終えたその日の夜、娘の夫から電話が入った。「意識障害になった」。手術後で出血も痛みも当然あったが、医師に頼み込み、翌朝、電車に飛び乗った。
 美和の状態は想像以上に悪かった。電話越しに聞こえていた明るい声。それが親に心配を掛けまいとする優しさだったことに気付いた。ベッドに横たわる娘。抗がん剤の影響で髪は抜け落ち、耳も聞こえていないようだった。もうしゃべることはできない。なぜもっと早く行かなかったのか。後悔した。「もう一度、お母さんと呼んで」。声を掛け続けると、見開いたままの娘の目から涙がこぼれた。
 その年の6月19日、意識が戻らぬまま、美和は息を引き取った。連絡を受け、愛知に急いだが最期をみとることはできなかった。
 10年たった今も、自宅の電話台の前には娘の電話番号を書いた紙が貼られたまま。時々、その番号を押してしまう。もしかしたら-。そんなことが起きるはずはないのに。
 静子は葬儀の時に娘の職場の同僚から聞いた話が、ずっと心に引っかかっている。娘は生前、こんなことを漏らしていたというのだ。
 「原爆のせいで死ぬかもしれない」  (文中敬称略)
      ◇
 平和、命の尊さを子どもたちに伝え続けている被爆者、三田村静子さん。娘や長崎で原爆に遭った姉、親族の多くをがんで失い、自身も4度がんを患った。被爆の影響を疑い、原爆投下から75年になる今もなお、見えない不安が付きまとう。苦悩の人生は、原爆が遠い昔の話ではない現実を物語っている。